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雨上がりの縁日 | Jun.28

毎月28日は近所のお不動さんの縁日。
雨模様の予報に、昨日までは雨なら参拝するのはパスすると決めていたのだが、昼前には雨も上がり、3時過ぎには雲が切れてきた。
4月、自粛要請が出ていたときの縁日は閑散を通り越して無残なほどの人の少なさだったが、6月の縁日は少ないながらも屋台も戻り、境内には小学生や中学生、子供連れの母親などでまあまあの混み具合になっていた。

密教にも「三密」という用語がある。
手で印相を結ぶ「身密」、真言を唱える「口密」、仏を心に浮かべる「心密」の三つで「三密」なのだそうだ。
仏と一体化するような気持ちで、経を唱えながら次々と印を結んでいるのだろうから、護摩行自体が三密を具体化したものなのだろう。
側から見ていると、よく手順を間違えないものだなと、変なことをつい考えてしまう。悟るには程遠い。

親戚のお寺に居候していたとき、「一人で経をあげるより二人の方がいい」と、般若心経を読むように言われた。
特に興味はなかったけれど、拒絶するような理由も見当たらず、毎朝の勤行の際に、般若心経だけは一緒に唱えていた。
最初こそ経文を書いた紙を手にしていたが、韻を踏んだ経文は、意外に早く覚えてしまうものだ。あのなんとも言えないお経を読むリズムも、耳が覚えてしまうのには役にたった。
まさに「門前の小僧」そのものだ。
意味などちんぷんかんぷんのままなのに、経文は自然と口から出てくる。あれは不思議な感覚だった。

それにしてもお寺で参拝する際に、相変わらず柏手を打つ人が一定数いる。
今日も一家4人で横に並んで「せーの」と掛け声をして「パンパン」と手を叩く人がいた。
神仏混淆の行き届いた成果だとするならば、仏像の前で柏手を打つことも正しい姿なのかもしれないが、毎度のことながら、この人たちはこの年齢になるまで、何も言われないまま来たんだろうなあと、つい思ってしまう。
もしかしたら彼らの親たちも同じように柏手を打っていたのかもしれない。

家庭の経済力の差が、そのまま教育の格差に繋がっていると言われる。
実際、東京大学に入学する家庭の平均年収は、一般の平均よりも高いことがわかっているそうで、そういうところから柏手を打つべきか否かの知識にも差がついているのだとしたら、少々いたたまれないものがある。
そういう人に限って「美しい日本」とか言っちゃってないかどうか、真面目に心配になるというものだ。

神社でも、参拝する際に「二礼二拍手一礼」の手順がわからず、柏手を打ってから礼をしたり、途中で「違うよ」と言われて、何度もぴょこぴょこと頭を上げたり下げたりしている人も見たことがある。
生活に溶け込んだ信仰心というのは、原型を止めることなく、省略化する運命なのかもしれない。
まったく美しくはないけれど。

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