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寝食を忘れて推敲にハマる

 プリンターを再設置してからというもの、書いてはプリントアウトし、朱を入れをひたすら繰り返している。
 元から推敲好きな体質ではあるのだけれど、熱中の度合いが自分でも笑ってしまうほどで、もはやこれは趣味なのではないかと感じるほどだ。
 noteなどにはほぼ書きっぱなしで、一度ざっと読み直すことすら滅多にない。完成形が最初からあるわけではないし、無責任に無秩序にただ書いては吐き出しているだけという酷さだ。
 当然ながら文章はまとまってないし、くどいこともあるし、わかりにくいことなんて日常茶飯事。まったく考えずに書いているのだからそうなるのは当然。僕にとってのnoteの立ち位置などその程度なので、これから先も書きっぱなし、投げっぱなしが続くはずだ。それはそれでいい。程度の問題として釣り合っている。

 書いている小説に手を入れることは、創るプロセスでは欠かせないものであるわけだけれど、直すというのは難しい。
 自分で書いたものは誰でも自分ではある程度納得してるのだろうし、それを一度は否定しなければならないのだから、人によっては苦痛を感じることもあるのかもしれない。
 その点、僕は自分のことをあまり信用していないので、初稿の完成度は良くてギリギリ50%に届くかどうかだと思っている。謙遜でもなんでもなく。
 大体が最初に書くときなんてのはスピードとパワーでとりあえず進めるところまで進んでしまおうという心持ちなのである。ボールを持ったら真っ直ぐに敵陣深くまで、という明大ラグビー部の故北島監督の教えのごとく、まずは行けるところまで行ってしまうようにしている。
 築城みたいに基礎を作り、石垣をがっちりと並べ、土を固めて天守を作る、なんて悠長なことをやっていたら、いつまで立っても出来上がらない。
 実はそうした一段一段がっちり組み上げていく方が性格には合っているのだけれど、小説を書く上では「何度も直す」方が格段に完成度は高くなる。そのことがわかっているから、まずは「スピードとパワー」なわけだ。

 これは僕個人に限ったことだと思うのだけれど、推敲はどちらかといえば石垣を組み直す作業に近い感じがする。すなわち僕には極めて向いている作業ということだ。
 印刷された文字の列のどこかにあるミスや修正すべき部分に気付いては、嬉々として書き直す。側から見れば完全な自己否定なのだが、なぜか推敲してるときには「第二の自分」が前に出てきてあれこれといちゃもんをつけているような気がする(いうまでもないが僕は人格性解離障害ではない)。
 書き直し場所発見ゲーム!みたいなノリで(別にはしゃぎはしないが)「やっぱここはこういう書き方の方が良いよね」などとせっかく書いた部箇所を朱線で一気に消してしまったり、たった数文字の部分を100文字とかで書き直したり。
 推敲のいいところは、手を入れる前と後を比べると、間違いなく手を入れた後の方が良い文章になっているところだ。だから飽きもせず、同じところを何度も何度も手を入れて、印刷した紙は真っ赤になる。そのうち、紙に赤色が目立ってくると、文章が良くなった証拠だ!とばかりに、顔に笑みが浮かんでくる。
 ここまで来たら「推敲は趣味」と言っても差し支えないと思うのだけれど、どうでしょうかねえ。

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