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書くことにまつわる様々なこと

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#雑文

ひねくれ者は小説世界をこう作る

 小説を書く、物語を作るに当たって「プロッター」か「パンツァー」か問題は常に書き手を二分する分水嶺だと思うのだけれど、ちょっと目新しい方法を思いついたので、いまウキウキしながら試している。  小説を作る作業を分析したり、考察するといった「どーでもいい」作業が殊の外好きな僕としては、方法論とかいろいろな小説作法を読むことも趣味の一つになってしまっている。  それらを参考にして「新しい理論を作り出すぞ!」「たくさんの書き手の人たちに見つけたものを知らせるぞ!」みたいな前向きな積

書くにはパソコンが邪魔

 デスクの真ん中にはノートパソコンがでかい顔でふんぞり返っている。  「オレ様の場所」と主張する感じが、畳を積み上げていないだけで、時代劇の牢名主とさして変わらないような威張りっぷりである。  物理的に実に邪魔だ。  家庭にコンピューターが侵入する以前、ネットなどなかったはるか昔を思い出すと、部屋で何かを書くこともまだまだ牧歌的で、世間一般に対して優越感を持つような甚だしい錯覚を覚えることができるものだった。  僕の部屋とて、あるのは書棚に机、あとはベッドとステレオコンポぐら

そしてまた振り出しに戻る

 さすがに自分の飽きっぽい性格については骨身にしみて分かっている。  何度となく同じことを繰り返すおかげで、自分の飽きっぽさが顔を覗かせ、枝を伸ばし、行き詰まるまでの傾向すら掴んでいて、もはや自分の飽きっぽさを言い訳にすることなどできないところまで行き着いている。  何かにつけ自分は飽きっぽい性格なのだという前提で、飽きっぽさが影響をしない、飽きっぽさを利用してしまえるような方策を考えなければならないのだ。  曖昧な書き方では何の話をしているのかわからないだろう。これは小説

「MVV」は小説制作に応用できるか

 企業勤めをしている人なら「MVV」は見聞きしたことがある、あるいは日頃から何かにつけて目にしているものだと思う。  経営学者のピーター・F・ドラッガーが2002年の著作『ネクスト・ソサエティ』の中で触れた一節を日本の経営者が自社の経営理念を表出するものとして便利に使うようになったシロモノで、「ミッション(mission)」「ヴィジョン(vision)」「バリュー(value)」の頭文字をとったものだ。  経営理念を言語化する難しさは経営者にとっては難しいことも多いようで、M

飽きっぽさに対抗するための方策

 兎にも角にも飽きっぽい性格で、実に困る。困ったところで治る気配もないし、治す努力すらすぐに飽きそうで、これまた困る。  年齢とともに右肩下がりの続く集中力は下げ止まる様子はないし、目だってすぐにしょぼしょぼになる。これではとてもじゃないけど長いものなど書けるはずがない。  何か良い方法はないものかと悩んで、毎日、その時に思いついた場面を書くことにした。 「なんだ、そんなの全然普通じゃん」  そんな声が今この時にも聞こえてきそうな気がする。だが小説指南、小説入門的な意味合い

新しいものなど、もはやどこにもない

 小説に限らず、何かを創ろうと考えた時、思いついたアイデアはすでに世の中に存在していると考えた方が間違いがないように思う。  目にしたことはなくても、これまでに誰かがどこかでやってしまっている。「これこそ自分の考えたオリジナルなものだ!」と内心勇んだところで、それと極めて似た何かはすでに作られている。  見たこともなければ、ネットで探しても見つからないのに、どうしてそんなことが言えるんだ、と反発されるかもしれないが、所詮は同じ人間が考え付くこと。残念ながら常識の範囲で許容可能

筋が先か、人が先か〜人物造形の話

 小説を書き始めるときに最初に閃くのは設定の場合がほとんどだ。  稀にストーリーが最初に浮かぶこともあるけれど、それはとても断片的で、最初から最後まで理路整然とした筋であることはない。  設定はさらに断片的で、しかも成立するのかどうかも怪しい。それでも閃いた設定の周囲を考えているうちにサイズはどんどんと大きくなり、関係してくる人間の数は増え、環境も細部まで少しずつクリアになってくる。  ここまでくると「これは書けるかもしれない」と根拠不明な自信が湧いてくる。だがそれはまやかし

手書きの効能と意図的な混沌

 先日、創作ノートのことを書いた。  創作ノートが手書きであろうが、パソコンを使ったものだろうが、手段は何でも関係ないと思うのだけれど、誰かにどちらかを勧めるならば迷わず手書きを勧める。  理由はただ一つ。汚いからだ。  書くより早くキーを打てる人もたくさんいる。文字を書くよりもキーボードを叩く方が簡単だし、綺麗だというけれど、こと創作ノートに関しては整っているよりも混沌としている方がおそらく良い。  書き込んだものが整ったフォントで表示されて、綺麗に並ぶ方がいいと思いがち

読書感想文のツボ

 ツイッターのトレンドに「読書感想文」が上がっていたので、興味を惹かれて覗いてみたら、思った以上に読書感想文が苦手だった人が多くて、ちょっと驚いた。  世代で区分するわけじゃないけれど、ツイッターに張り付いているような人は僕よりもずっと若い人が多数なのだろうし、その推測に間違いがなければ読書離れが甚だしい中で育ってきたはず。  そもそも読書習慣がないのだから、感想文が得意なはずもない。苦手な人が多いのも頷ける。  「書き方を教わっていない」というツイートを見つけて、感想文っ

物語の薄さ、酷さ、雑さを回避する方策は人としての在り方なのかも

 今期の朝ドラはひどい脚本だと思いつつ、しつこく見続けている理由はただ一つ。勉強のためだ。  ひどい脚本とうまい脚本の差を知ろうとするならば、出来の良いドラマだけを見ているわけにはいかない。ひどい脚本を観察しなければ落差も乖離の大きさも構造の違いもわからない。  そういう意味では今期の朝ドラは実に良い観察対象であることは疑いがない。  どう始まり、どう終わるか。スタート地点からゴールまでどういった変遷を辿るのか。最初の設定、物語の中心線が退屈では如何ともしがたい。  だがそ

『トップガン マーヴェリック』を見たら、面白さとは何なのかを考えさせられた

ストーリーに関しては公開されている情報以下のことしか書かないので、ご心配なく。 *        *       *  この週末、大ヒット中の『トップガン マーヴェリック』を観てきた。  前作から36年の空白を経ての「続編」である。  前作を見たのはまだ学生だった頃。包み隠さず言えば、それほど面白い映画だとも思わなかった。  もちろんそれ相応に面白くは観たのだけれど、無鉄砲な天才パイロットが葛藤と挫折を経てライバルたちと成長していくという、それまでにも散々観たようなセオリ

書き方の癖を矯正する

 誰しも得意と不得意はあるものだ。  小説なんぞ書こうという人の大半は、かつて(あるいはいつも)誰かから「文章書くの上手だよね」と言われた経験を持っているものだと思う。  自分で特別上手とも思っていないのに、誰かからそんな風に言われれば嬉しいものだし、ふと我が身を振り返ってみればそんな気もしなくもないと思うものだ。  実際、文章書きをする人のほとんどは文章を書くことを苦にしないし、苦にならないから飽きずに書く。そうしているうちに頭に浮かんだことを文字に置き換えることが当たり前

小説の書き方の王道とは (そもそもそんなものがあるのかという話)

 ある意味、noteという特殊な場所——ある種、書くことへの特徴的な偏りが初源的に存在する場所だからかもしれないが、他と比べると「書く」という行為に対して迷いや疑問を抱いている人が多いように感じる。  「書く」と一言で言ってしまうのは乱暴に過ぎる。  ここでいう「書く」とは「小説を書く」「物語を紡ぐ」という行為においてのことだ。  特徴的な偏りといったのは、それだけ創作するということに強く興味関心、あるいは願望等々を持つ人が多く集まっているということだ。  そして、日々文

noteに書くのは、家の前で素振りをしてるようなもの

 このところWEBで開陳する文章を書く時間が減っているせいで、友人からも生存確認の連絡が来る頻度が増えた。  ネットワーク社会では常に身にまつわる情報のカケラを多少なりとも漏らしておかないと、世界に存在していることにはならないらしい。「あいつ、きっと元気だろうな」と想像するだけで済んだネット以前の社会とはまったく違う世界に変化してしまっている。  と、そんなわけで、社会の末端に連なる宿命で、内容は何であっても書かなければ仕方がないと開き直り始めたのがここ数日のことなのだが、