俺はナイト #月刊撚り糸 【短編小説】1700文字
「すみません」と言って俺に頭を下げる。
この空間で俺のことを知っている奴らはいない。
この空間に足を踏み入れた直後は俺もこいつらと平等だが、ボタンを押すことで俺は徐々に高揚していく。
こいつらは俺の支配下にあるのだ。
このボタンを押して道を開いてやるか、閉じてしまうか。
この空間に入ることを拒むことだってできる。
誰でも俺に成り代わるチャンスはある。
だからどの空間に入るかは見極めなければいけない。
既に人が群がっている空間は見送る。ボタンを押すチャンスを掴むのは難しいだろう。
そうかといって、人が少ない空間も満たされない。支配する奴らの数はある程度欲しい。
やはり空間に1番に足を踏み入れることのできるタイミングは大事だ。
できればその空間にいる奴らはそれぞれが赤の他人であると、俺は多幸感をより得ることができる。
喋るな。ここは俺の空間だ。
残念なことだが、俺がこの空間を出ると支配は解かれ、俺は徐々に地に落ちていく。
目の前に広がる敵地。
かつてここは親愛なる地であり、志願して兵士となって戦ってきた。
戦ってきた、か。
俺がそう思っているだけかもしれない。
ただ他の兵士が通る道を綺麗にするために掃いていただけかもしれない。
そうなのだ。だから、いつの間にか若い兵士に使われる身になっていた。
同年代のうち、いつの間にか長尉佐などになって活躍しているものもいるが、大抵は上手く周りに馴染むように姿を変えている。
生き残るのは変化できる者である、か。ダーウィンの言葉はこんな俺にも刺さる。
今日もタイミングは逃さない。そのために時間には余裕を持っている。
8基あるうち、既に人が多く集まっている基は見送る。20階へのシャトルエレベーターなんて論外だ。
1番に乗り込み、行き先階ボタンの前に陣取る。
ただ、ボタンに向き合って陣取るのではない。後から入ってくる人たちが行き先の階のボタンを押せるよう、背は壁に向けて、ボタンと直角になるように陣取るのだ。
これを間違うと、後からやれ7階を押してくれだの、背後から指示が出てくる。
2階で扉が開く。「すみません」と頭を下げて男が足早に去っていく。
それもそうだ。30階もあるオフィス棟の2階で降りるなど。朝の通勤時は階段を使え。
エレベーター内全員の冷たい視線を浴びて出ていくあの若造の行く末が危ぶまれる。
4階で扉が開く。「すみません」とほのかに香る髪をなびかせ、女と目が合う。
人工的ないい匂いだ。俺の全てを刺激する。
濡れたような瞳に見つめられたかと思うと、久しぶりに疼くものがある。
会社にも同じような女はいるが、俺をあんな目で見る女はいない。
他部署の人でさえ、俺がどう扱われているか知っている。
5階で扉が開く。「どうも」と会釈をされた。
いいスーツを着て、皮のビジネスバックを持った男が颯爽と出ていく。
連続でボタンを押すのはいいが、どうもこの手の男は苦手だ。
一瞬怯むが、ここは有能な部下を送り出す気持ちに切り替える。
今日はいい基に巡り合えた。
各階に停まる勢いでボタンを押してやることができる。
俺以外はみんな外れたと思っているだろう。
さっきは一番奥のやつが出るために、半分程の人がいったん外に出なければいけなかった。
「すみません。ごめんなさい。すみません」
いいよ、俺は許してやるよ。今日はたまたま間違えちゃったんだろう?
読みが甘かったか?ぼーっとしていたか?
次からは気をつけるんだぞ。
20階に着いた。いつもならもう乗っているのは自分ひとりだ。
そもそも20階以上に行く人はシャトルエレベーターに乗って一気に20階まで行く。
俺はいつもこの基の最終階である20階で降り、3階分階段で上って23階の会社フロアに向かう。
だが今日はもう1人いた。
他の階と同様にボタンを押してやると、「ありがとう」といってリュックを背負った女の子が跳ねるように降りていった。
向かって行った先は最近できたオフィス棟専用の託児所だ。
耳を向けてみると、赤ん坊の泣き声や保育士のあやす声に交じって、多少背伸びしたような会話が聞こえる。
そういや、子供にとって今は春休みか。さっきの子のような小学生も預かっているのかもしれない。
「ありがとう、か。いいな」
いつもなら重い23階への足取りが軽く感じた。
あの子の騎士になってみるのもいいかもしれない。
今度同じ基に乗り合わせたら、言ってみようか。
「どうぞ」
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