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雨、鉄を鳴らす 6

歌声が聴こえる。
斜向かいの個室からだろう。再び閉じられた目には、光ることのない星が蠢いている。耳をそば立てていた。響く老婆の声が私の知ることのなかった昔の唄を教える。
イチジクについて考えている。―あるいはザクロだったかもしれないが―彼女は母であるかもしれない。最初の人が性を知った時、その果実は既にもう、性を知っていたのだから。それは果実ではない、かつて花だったものだ。剥き出しの種子だったものだ。我々はそれを口に入れて、味わう。甘い汁を、味わう。けれど、唇に触れさせてはならない、腫れてしまう。用心深く味わう必要がある。熟れた外皮を割いて、赤い蜜を吸った。時折、取り残された虫が心地良さそうに埋もれている。
その果実の話をしなければならないだろう。

否、そんな事はない。
だって、べつに、車椅子でいなさいと言われただけだから、ただそれだけで、だから私はそれに従って、ただただ先生におされて学校に来て、そうして授業が始まってすごく退屈だし頭が、頭がぼんやりしちゃって、何を言っているのか全然わからなくなって、休憩しようかって先生が言ったから、私はうん、っていってそのまま、この小さな、小さな中庭に来て、中庭に来たって今日は車椅子だし、ここは小さすぎるし、ここにきてから中庭で遊んだ事もないし、中庭に来た事もなかったし。なのに。先生はいなくなった。おばさんも行ってしまった。そしてなんだかわからない、人間と呼ばれる側のものの衝動でブランコを漕いでいる。えっちゃんは自由だ、何でも持っている。先生はえっちゃんを見ている。私は、私以外の他人はいない。誰も。一人でブランコを漕いでいたって、誰にも叱られたりしない。大きな声を張り上げても、無理やりに身体を動かして、脆い骨と痛みに耐えながらこの場を駆け出したとしても、だれも叱ってなどくれない。えっちゃんは自由だ。でもその自由は束縛を得るための自由であって、だから自由では、ない。この場所からは抜け出すこともできない。まるで滑稽だよ、アリスの話みたいに、滑稽だ。小さな小さな家に大きな身体が弾けんばかりに飛び出して、まるで滑稽だよ。くだらないよ、アリスなんかよりずっと滑稽だ。私は何度も何度も笑って何度も何度も何度も何度も、ぐうんぐうんぐううんぐううううううんと身体を動かして、動かしてうごかして動かそうとして、渾身の力を振り絞ってしぼってしぼって絞って、ブランコを漕いだ。夕陽が柔い光で校舎を照らしていて、とても奇麗だった。それからブランコを急いで降りてその勢いにのって、くるくるくるくる笑いながら小さな中庭をはちゃめちゃに踊った。誰も見ていなかった。校舎には誰かしらいるはずなのに、誰も私を見ていなかった。萎えた足が更にもう堪えられないくらいに萎えて萎えてくにゃんくにゃんといった。頭が重く息は苦しく、聞いた事もない「ぜえええはああ」を繰り返し、器官の所為を強く伝えていた。
それでも、やっぱり、誰もいなかった。
誰もいない中の全てが、その出来事の全て。でも本当は知っていた。知っていました、そこに、その場所にしっかりと、えっちゃんがいるって。えっちゃんだけはいつも私を見ないようにして、けれど、どうしても見ちゃうってこと、全部私、知っていた。知ってたよ。私をみることでえっちゃんは自分を見ている。誰もいない空っぽな私という身体を見ている。見つめている。見据えている。そう、知っていて私、そうしました。そうしたら、えっちゃんは、可哀想なえっちゃんはどうしようもなくなってしまう。自分に溢れたどうしようもない感情を抑えられなくなって、ほら、えっちゃんて薬を飲んだアリスだから。だから、きっときっとそうなるってわかっていたから。私はそのことに気がついていたから、だからそうしたの。そうするしかなかったの、そうしてやったの。全部、全部気がつかせるために。だってそうでしょ?私たち子供なんだから、子供らしく太陽の下でくるくるまわって馬鹿みたいに転げ回って狂ったみたいに笑って、狂ったように叫んで、それが健全でしょ?それが健康でしょ?それが普通でしょ?でも、やっぱり誰もいない。誰も見ていない。この世界には、誰もいない。そうして、そうしたら、えっちゃん、やっぱり思ったように、私が想像していたように溺れていった。それからえっちゃんは毎日自分をみたくて、自分をみせたくて頑張って、頑張って引き裂いて、そして、ふり絞った。私はそれをみて、軽蔑した。えっちゃんて、変なの!なんて弱い人間。あれはえっちゃんのやり方。そうやって、そうやって思って、そう思いながら、私はね、私は、私も、同じようにしてみたくなった。でも出来なかったの。出来なかったよ。私はえっちゃんみたいには、出来なかった。

―おもいで、

朝焼けの空に、黄緑色をしたインコの群勢が翼を広げている。口々におしゃべり。可愛らしい声で、醜い過去の言葉を晒していた。
数日、数ヶ月、眠ったことはなかった。時たま目を開けて、笑みをみせる。満面の、今までに見たことがないほど恐ろしく、愛おしく眩しい。死にゆくものが死んだものを見つめている、そのことに気がつく。もう、彼女に私は見えていない。日が落ちて、誰の声も聞こえなくなる。子供たちも、鳥たちも、それぞれの家に帰っていく。誰もいない世界に置いていかれた風が、まだカーテンを揺らし続けている。吸い込んでは吐き出すという、繰り返し。機械のリズムに胸が広がって、萎む。時折りうっすらと目蓋は開かれ、不思議そうに小首を傾げる。差し出された手を握る。その目を見つめる必要はもうない。彼女は彼女の中で、私という温もりを全ての幸福へと変換している。その時、私は、もはや私ではなくなる。一度、強く握られた気がした。急速に何かが去っていくのを感じる。そこには誰もいないのだろう。哀しみも恐怖も消えて、満ち満ちた世界。そこには私も、あなた自身も、彼らもいないのだろう。世界は世界という概念をなくすのだろう。


さようなら。

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