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雨、鉄を鳴らす 8:さいご

幾年かぶりにこの身で支えた頭が揺れる。首からポキンと音をたてて折れてしまいそうだ。身体にかかる重力が、私にこの地球への帰還を告げていた。ごくろう、ごくろう……。どくどくと脈打つ鼓動が、今にも飛び出さんばかりに鳴り響いている。私は数分のあいだ堪えたが、身体を支えるために立てた右手は、もう既に限界を迎えている。地球はこんなにも重たく、私にのしかかる。脈動はこんなにもせわしなく、私の身体はいったいどこに行って、ちゃんとここにあるのだろうか。床に足をつけ、あらん限りの力で立ち上がる。頭は思わぬ方へ、ゆらゆらと揺れる。体中が圧力に負けじと、一斉に震える。血流がすさまじい早さで直立という態勢に備えようとする。
私は、立っている。たっている、立っている?かろうじて。
立つとは、何か。足が向かっている面は地なのだろうか。
一歩前へ、足を少し、地と呼ばれるものから離す。頭があらぬ方向にひしゃげてしまわないようにと全神経を直立と呼ばれているはずのものに向ける。バランス。私の中に言葉がよぎる。しかし、この、体内において銘々勝手をもって蠢くこいつらを、一歩の総動員に向けるのは大変難儀なことだ。
 おかしな夢をみていた。私は夢の中で蛆になって蠢いていた。そこがどこであるのかはわからなかったが、何か生命を帯び、そして与え、自らもそれに順応しながらも移動し、与え導いているという実感を感じられる世界であった。それが男の体内なのか、例えば女の子宮の内なのか、そんな事はもはやどうでもいいことのように思えた。しかし、その生命を帯びた何かが人間である、という事だけは何故か確信を持っていた。私はその体内にあるからこそ、蛆として蠢く使命を感じていた。
何か口に入れよう。そのような意志をもって洗面台のあるであろう方角へと向かう。やっとのことで淵に手をおき、自身の重みを分散させ、頭を身体にみあった位置に乗せようと持ち上げた瞬間、眼の前に鏡を見た。
私は私であって、その私は私の形容を知らなかった。鏡に映っている自身をみて、脳裏に焼き付けてはみたが、それは私が知りようもない何か獣にも似た、私という名の女だった。幽体離脱というものを実際に経験したことはなかったが、恐らくこんな妙な心持ちがするものなのだろう。これは本当に幽体離脱なのだろうか。しかし、私が私の身体を、顔を、それ等をみて、私と認められないところをみると、一般的に言われている幽体離脱というものとは少し違う気がした。幽霊離脱ゆうたいりだつ…
続いて、私の筋肉はこの『幽体離脱』を知る事に動員を喚起させる事にしたらしい、私は私の身体を、幽体離脱という言葉を知るために向かわせた。数年の埃を被った辞書は私の腕には重く、持ち上げると背中の内にある骨が少しうめいた。幽体離脱…そんな言葉は辞書には載っていない。誰にも認められていない。そうか、これは無いものなのだ。なにものでもないその意識は意識ではない。訂正する、これは私ではない、この私は私ではない。


もうすぐ、とうとう、ようやく赤に近づく、そう感じた。その瞬間、何かが真横から突き破ろうとする力をもってさらった。気がつくと地に横たわり、ドクドクという心臓の音と暖かいものに包まれていた。なんだか遠くへいくような意識の中を漂っている。倒れ込んだ辺り一面が赤で尽くされていた。ああ、またここに戻るのだ。否、私から赤が起きたのだ。そしてまた含まれるのだ。そうでなければ、そうでなければこれが、そうだこれが、あの赤だ。私の、私の中の、私である、私でしかない、私である必要性の上で成り立つ、それ以上には成され得ぬ…


ー朝だ、日の光がそう、教えている。目蓋の裏に焼き付いた、揺れるカーテンと、歌声。起きなければならないだろう。また誤ってしまう。私はやっと私のなかに生まれる。溺れるのでも、垂れ、流されるのでもない。私はまた、生まれる。溢れて、満ちて、生まれる。生まれる、生まれる。

―さらに、
目が覚める少し前、その場所を感じた。灰色の薄雲。やがて霧となって、洞窟が現れる。妙に柔らかそうな岩壁に心地よさを感じて、深くその先へ進もうとする。瞬間、雷鳴に阻まれ、身動いでいる間に剣を持った顔を持たない男が発光する。星の一部だ、そう感じたときには、もう全てがなくなってしまう。再び、忘れられたカーテンが風に揺らめいて、懐かしい窓辺が浮かぶ。初夏の、或いは春の終わりの、緩やかな風だ。小さかったあの子はいつの間にか男の子になって、駆け回っている。
 


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