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五日市の文化人|歌人・三ヶ島葭子の伝記にみる昔のまち

明治大正に、活躍した女性歌人・三ヶ島葭子は、明治41年に西多摩郡小宮尋常高等小学校の代用教員として赴任、以後、大正3年に退職するまで小宮村に暮らしたそうです。埼玉の女子師範学校在学中に結核を患い、約3年の闘病のすえ、住み込みの内職や家事手伝いを始めた娘の将来を案じた父親が奔走し、生母の実家宮沢家の尽力もあって、秋川渓谷流域のこの地の教職を見出したとあります。住まいは、小宮村の乙津で雑貨商を営む「森屋りつ」さんの家に間借り。平日は音楽や裁縫の専科教員や複式の学級担任として教壇に立ち、休日は雑貨、味噌醤油、酒などお店の手伝いをすることもあったとされます。

彼女は、落合で当時から生産されていた和紙:軍道紙を大福帳のように二つ折りにして重ね、中央をこよりで綴じた日記帳に、生活の様子を書き綴っていたそう。そこには当時の五日市のまちなかを描く文も。

急に思ひついて五日市町まで一里半の道を三時間で往って来た。流行らしい色合ひのを両側(注:腹合わせ帯の両面のこと)奮発して持ってくる時にはさすがに胸の開けたやうだった。そして普通の少女心が自分にもあるのだと思つた。何でも言へば言へる。すれば出来るのだと思つた。(明治四十三年八月四日)

五日市で呉服屋さんといえば、あの建物かな?など今のまちと重ね合わせながら読むと楽しくなってきます。山の生活を送りつつ文学雑誌「女子文壇」「スバル」へ短歌や文を投稿し始めたことで、文学への道にのめり込まれました。実の叔父への書簡文が雑誌掲載された「炭を送る」では、『五日市へ行く馬に頼んで楢と樫の上等の炭を運び地元で名人とよばれた方の焼いた上等のものを送った』と産業の姿を描き。女子文壇に掲載された「買物」では、『八百屋のおかみさんが、大根や蕪の枯れ葉をとって古いのから表に出す様子、ハイカラな奥様が大根の葉を、二、三本に切らせてメリンスの風呂敷に包んで帰った』と気取らない文章で生活を描いてみせています。五日市の自然や生活が、この歌人の文学の才能を育てたかもしれない、と思いたくなります。

参考文献:秋山佐和子「歌ひつくさばゆるされむかも歌人三ヶ島葭子の生涯」

バックナンバー:五日市まちづくり通信 9月号掲載

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