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閑話 #2

他人を理解するって難しい。
自分は諦めました。
猟奇的殺人の犯人とか理解できます?
いつも嫌味なアイツとか、ボランティア精神に富みすぎて迷惑かけてくるソイツとか、理解できないなと思ってしまうわけです。

それでも自分自身は理解してほしい。

多分、完璧を求めてしまうんでしょうね。
自分にも、相手にも。
理解するならとことんって思ってしまう。
極端な考え方だなと自分でも知っているので、「多様性ってなに」に関しては自分が向き合ってほしいやり方なのだと思います。
自分にとっての「知る」は他人にとっての「理解」なのかもしれません。


そういえば今まで投稿した記事を見返して、改めて思ったことがあります。
自分をかわいいと思いたいというような表現、よく使っているなと。
これ、どういう意味だと思いますか?
流石にただ表面的にかわいくなりたいとかじゃないです。見た目の麗しさは重要だと考えている方ではありますが。
これは子どもをかわいいと思う気持ちと同じです。

その不完全さを愛したい。

幼い子どもは大人が思う以上に一生懸命生きています。成長するのにしたがって忘れてしまうけれど、誰しもが子どもだったのだから経験しているはずなのです。服を一人で着脱したり、もつれやすく覚束ない足で走ったり、全てが難しかったあの頃。

必ず共感を得られる考えだとは思いませんが、不完全だけど一生懸命な自分を愛したい。

なんだか語ってしまいましたが、閑話#2でした。

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