【甲】月の満ち欠け/佐藤正午

あたしは,月のように死んで,生まれ変わる――この七歳の娘が、いまは亡き我が子? いまは亡き妻? いまは亡き恋人? そうでないなら、果たしてこの子は何者なのか?三人の男と一人の女の三十余年に及ぶ人生, その過ぎし日々が交錯し, 幾重にも織り込まれてゆく, この数奇なる愛の軌跡。第157回直木賞受賞作。<表紙より>

「いいなあ。」

この作品を読んで、最初に頭に浮かんだ感想だ。これは良さをかみしめてるんじゃなくて、羨ましがってるほう。
最初は生まれ変わってまで会いたい人がいることとか、そのきっかけを作ったいい感じの出会いに羨望を抱いているのかと思ったが、しばらくこの感想を温めていると少しだけ別なことに気づいた。

まあ正木瑠璃と三角哲彦のおよそ不倫に似つかわしくない逢瀬はかなり良かったが、それはおいといて、私が羨ましかったのは生まれ変わって記憶を取り戻した後、躊躇なく相手に会いに行こうとできていたことだ。
生まれ変わりとか前世があるタイプの恋愛小説や漫画はたぶんたくさんあるが私のイメージだと、恋人に会えたとしても自分がそれを伝えることが相手にとって幸せなのか、、、?とか打ち明けたところで年齢差、、、とか考えて悩んでいる。これとは異なり「月の満ち欠け」では二人を阻むのは物理的な距離と降りかかる死だけで基本的に瑠璃たちは一心に三角くんに会いに行こうとする。
それができるだけのお互いの気持ち、それから自分の気持ちに対する自信みたいなものと、瑠璃のある程度の身勝手さがたぶん羨ましかった。
これはもちろん彼らにとっても読者にとっても必然性を持つように作者に誘導された結果ではある。生前、正木瑠璃は「ちょっと死んでみる」とだけ遺書を残した夫の同僚を引き合いにだして、唐突に、でも違和感なく自分が月のように死にたいことを話す。それに対して三角は「瑠璃も玻璃も照らせば光る、から」とか言って若者の純愛らしく、何度でも瑠璃のそばにいることを決意する。

このへんのシーンでタイトル回収されているのと月のような死と樹木のような死、が対比されているのもよかったな。

それで、これに限らずそういう何気なく始まる会話やしれっと出てくる言葉の数々が物語の全体像へのきっかけとなっているので、そこそこな文量のこの本を一気に読ませられるし読後の納得感というか居心地の良さというか、はすごい。「一冊くらい小説を読んでみたい」人に薦めたい、と伊坂幸太郎が言うだけある。

ここで少しだけ話を戻す。先ほど瑠璃のある程度の身勝手さ、と書いたがこれにはもう少し思うところがある。物語に水を差すような考えには違いないが、記録程度の文章なのでとりあえず書く。
瑠璃の記憶を引き継いだ三人の少女は決まって幼い時に一度体調を崩してそのあと記憶を取り戻す。ということは別の人格として生きていた期間が少なからずある。これは小山内堅をはじめとする彼女らの親から、子供を奪っていることにはならないんだろうか。事実希美の母親は娘の不可解な行動に困惑していたし、正木竜之介のする前世話には耳を貸さなかった。幾重にも生が連なるように、瑠璃が生まれ変わるのは決まって関係者の近くだったから、それが受け入れられるのに大した不自然さは無かった。でもなんとなく今の家族をないがしろにしているような気がしてたのと、その人をその人たらしめているもの、に記憶しか採用されていないのが腑に落ちなかったように思う。

ひねくれた話はこれくらいにして、とにかくこの本が見た目のとっつきにくさや生まれ変わりとかいう突飛な設定に反して面白く、薦めたくなるものであるのは違いない。
来世の自分にもおすすめしたいので、なにかの拍子にこの文章にたどり着いたりすることを夢見つつ、感想文を終わりにする。

2019/11



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