【乙】i(アイ)/西加奈子
アイは、紛争や政治問題の絶えない国、シリアで生まれた。
記憶もない赤ん坊のころに、アメリカ人の父と、日本人の母のもとに引き取られ、日本で恵まれた生活を送るアイは、幼いころから世界のあらゆるところに発生する災害や事件、不均衡に目を向け、そのたびに胸を痛めていた。
恥ずかしながらも、私自身は世界中で起きている不幸に日常的に思いを馳せるどころか、それに対する知識すら一般的に見てだいぶ足りない。この本を読みながらも自戒の気持ちがふわっと居座り続けた。そんな私にも多少は思うところがあるわけなので、自戒を込めて、書いていきたいと思う。
幼いころのアイは、世界のどこかで起こる不幸に胸を痛める一方で、自分から遠く離れた場所の出来事に対して、被害者でも加害者でもない、まったくの部外者である自分が胸を痛め続けていることを恥じる気持ちにも苦しんだ。
結局、「語る資格」などと難しいことをぐちゃぐちゃ考えて言い訳をせずに、善意は無条件にむき出しにしていくべきものなんだろう。あとがきで作者の西加奈子さんが記した「自分の幸せを願う気持ちとこの世界のだれかを思いやる気持ちは矛盾しない」という言葉にすべて集約されているように感じた。
現実に、当事者以外の人間の声が「何様だよ」と冷めた目で見られることは確かに多いが、聡明なアイがそういった風潮にのまれて、自分を「部外者」とみなして胸を痛める行為を恥じるようになってしまうのはなんだかとてももったいなく、悲しいことだ。
「語る資格」というのは難しいものだし、自分もよく考えてしまう。
以前、語る資格というものについての文章をインターネットで読んだ。その記事では例えば「楽器の一つも弾けないのに音楽評論をする人」なんかを例に挙げながら、多くの人があらゆる媒体で発信できる時代だからこそ、誰に言う資格があるのか、また、何を聞き入れて参考にすべきか、ということを改めて考えてみてもいいのでは、という現代における情報の取捨選択に関する内容のもので、私はかなり納得させられた記憶があり、常にこの考えが頭の隅にある。
一方で、これはがあくまでインターネットリテラシーに関する話であることを忘れていた節もある。この理論を盾に言い訳をして他者に関心をもって素直に悲しんだり喜んだりすることから逃げるのはお門違いで、素直な善意を表に出すことの方が圧倒的にいい状態であることには間違いない。
ただ、大前提としてアイは世界で起きている事件や戦争のことを、両親からの伝聞や、自ら取り入れたニュースや本の情報によって、「知って」いた。当事者でない人にも現実に思いをはせる権利があったとしても、最低限「知っている」ことが前提だ。
めちゃくちゃ浅はかだけど、ニュース観て本読もう。本当にそう思った。
また、物語後半、アイが当事者になる場面がやってくる。
大人になったアイは夫を持ち、二人の間に子供を望んだ。
しかしうまくいかない。不妊治療に苦しみ、やっとの思いでできた子供は流産してしまう。その時アイは、恋人の思いやりをどれだけ頭では理解しようと、「この悲劇を、一度でもいいから体験してみろ」とどうしても思ってしまうのだった。
一方で、アイの親友であったミナは妊娠が原因で恋人と別れ、苦しんでいた。「思いがけない妊娠」というのはアイにとっては望み焦がれた事柄であるが、ミナにとっては一つの波乱の原因となってしまってミナを苦しめたのだ。ミナもまた苦しみの「当事者」だったが、アイは、ミナが中絶することを聞いて、憤りでいっぱいであった。
この時、ミナは「子供のことで、私がアイに謝ることはない」と断言しながらも、変わらずアイの支えであること、幸せを祈ることを申し出る。
しかしアイは、ミナを許すことができなかった。
「自分の幸せを願う気持ちとこの世界のだれかを思いやる気持ちは矛盾しない」という筆者の言葉が、ミナからアイへの行動に込められているように感じた。一方で、自分の地獄を抱えながらも他人の苦しみを想像するなんて到底できたまねではないので、アイがミナの申し出を一時的ではあるが素直に受け入れられなかったのも当然のことのように思う。(結果としては受け入れ、理解に至った)
誰もがそれぞれ見えない地獄を抱えていることを想像しながら、善意を素直に与えたり受け入れたりすること。最近読んだ本の中でも圧倒的に「グッドガール」な主人公であった彼女にとっても難しいことだったのだから、現実においても非常に難しいことなのは分かっている。
ただ少し、自分を思い返すきっかけにはなったので、この本を読んでよかったと思っている。