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伝馬町駅インタビュー


今回は伝馬町駅についてのインタビューを熱田区区政協力委員協議会議長、白鳥学区連絡協議会会長、白鳥学区区政協力委員委員長としてご活動されている中田俊夫さんにお聞きしました。

学生)
本日はお忙しい中お時間をいただきありがとうございます。早速ですが、11月1日からスタートする「熱田歴史探訪」のデジタルスタンプラリーのスタンプポイントの一つとして伝馬町駅が設定されています。今回は熱田区役所からの紹介で伝馬町駅についてのお話を中田さんにお伺いさせていただきます。

 
学生)
今回伝馬町の駅名が伝馬町駅から熱田神宮伝馬町駅に変わるということもあり、今回のデジタルスタンプラリーのポイントにもなっています。伝馬町とは歴史上の中でどんな役割でどのような街だったのですか?
 
中田さん)
東海道随一の宿場町であった宮宿で、古くは大化の改新の頃から存在したといわれる「伝馬制度」が国の施策として設けられていました。初めは税金の代わりに無料の貸し出しものとして馬5匹、民間人5人ほどを宿場町ごとに置くことで、物資、人、情報(手紙)の移動を次の宿場町まで安全に送り届ける仕事を伝馬に住んでいる人の役割として行っていました。
この制度は平安時代頃に一度薄れたものになってしまいましたが、武士の時代である江戸時代頃になると、再び物流、情報、人の流れが盛んになり、それまでの馬5匹、民間人5人から馬100匹、民間人100人の規模まで伝馬制度は広がっていったと言われています。

インタビューに用いられた資料

 
学生)
その馬、民間人の方々は具体的にどんな指示を受けどのくらいの区間を移動していたのですか?
 
中田さん)
民間人の方は大名などの地位のある人間の指示によって、御朱印を持った人が来ると、そこにいる民間人に対して宿場から次の宿場間への移動を指示しました。
 
学生)
民間人同士、知り合い同士での伝馬制度を使った移動は行われていなかったのですか?
 
中田さん)
当時伝馬制度を行っていた民間人の方は国の施策として無料の制度として伝馬制度を行っていたので生活に困る人も多かったようです。
それをみた大名や役所は一般の人を対象にした営業を行うことを許可しました。この場合はお金を取って、手紙を運ぶことや人を乗せる(馬に運んでもらう)ことで利益を得て生活するお金を稼ぐ人も存在しました。江戸時代は先程述べたように人や物の流れが盛んだったのでこの許可が出てからは盛んに伝馬制度による営業が行われていたと言われています。
 
学生)
多くの人や物が動いていたのですね。
 

資料を見る学生の様子


中田さん)
現代のことばで分かりやすく伝えるなら「マラソン」ではなく「駅伝」になると思います。一人(一匹の馬)で目的地まで運ぶのではなく、次の宿場町などに繋げるという中継所という意味合いの方が伝わりやすいのかなと思います。
 
学生)
今回伝馬町の駅名が変わるということで私たち学生は「伝馬」という言葉の意味や「伝馬町」について熱田の街、伝馬町駅付近を調べ、熱田図書館での資料探しをしましたが詳しい話や記録を見つけることができませんでした。現在その当時の伝馬町の様子を見ることができる資料や学ぶことができる場所はありますか?
 
中田さん)
残念ながら資料などは残ってなく難しいですね。私も小さい時からこのあたりに住んでいますが伝馬町に関する詳しい資料など残っているものを見る機会はなかったです。
 
学生)
そうですか。熱田区役所に行き、加藤区長に伝馬町について詳しいお話を聞きたいとお尋ねしたところ中田さんをご紹介いただきました。資料に残っていないお話をお聞きでき大変勉強になりました。ありがとうございました。

中田さん)
ありがとうございました。 

インタビューにお答え頂いた中田俊夫さん

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