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全ての文明は繋がっている

前回、日本人には自国の歴史を自虐的に捉える「自虐史観」のクセがあって、それが日本の美術史にまで及んでいる、ということを述べました。

https://note.com/itozaki_photoart/n/n08fd6b50c279

それで続きとして浮世絵を始めとする日本のアートが、ヨーロッパの近代絵画に、そして「写真」に大きく影響を与えたことについて書こうと思ったのですが、その前提として、今回は「全ての文明は繋がっている」という話をしようと思います。
一般に「日本文化とヨーロッパ文化は根本から違っている」という話をよく聞きます。

もちろんそれは一面で見ればその通りなのですが、一方では同じ人間(ホモ・サピエンス)として、そして同じ文明人として、共通点も多数挙げることもできるのです。

そして日本文化とヨーロッパ文化の「共通性」に注目することで、日本文化のレベルの高さと、それが世界に与えた影響について、より良く理解できるのではないかと思うのです。

https://mondaistock.com/kodaibunmei/ より引用

さて、文明の発祥について考えると、一般には「四大文明」と言われ、約一万年から数千年まえのほぼ同時期に、メソポタミア、エジプト、インド(インダス)、中国(黄河)の四つの地域からそれぞれ独自の「文明」が生まれたとされていて、私も学校ではそのように教わりました。

古代メソポタミア文明のジッグラト


しかし一方で、最近では文明が発生したのは約一万年前のメソポタミア一箇所で、それが他の地域に伝播して、それぞれの地域で独自の発展を遂げていった、と言う考え方もあるのです。

https://post.tv-asahi.co.jp/post-144904/ より引用

人類の歴史は700万年とも800万年ともいわれ、現生人類であるホモ・サピエンスが登場して20万年あまりと言われてますが、その大半が狩猟採取を中心とした「原始生活」を送っていたのです。

ところが人類史的に考えるとつい最近の約一万年から数千年前にかけて、突然「文明」と言う全く新しい生活システムが登場したのです。

原始から文明へと移行した人類は「農業」を始め、そのために爆発的に人口が増え、増えた人口により農業を運営するため「国家」が形成され、国家を管理するための「数字」や「文字」が発明され、建築や彫像や壁画など、さまざまなアートも生まれるようになったのです。

そして、そのように画期的で飛躍的な「文明」と言うシステムが、ほぼ同時期に四つの地域からそれぞれ発生したと考えるのは、どうも不自然に感じられるのです。
むしろ現在確認されている最も古い文明の痕跡は、約一万年前のメソポタミアだとされており、そこから各地域へ「文明」のシステムが伝播したの考えるのが、合理的だとも言えるのです。

https://trend-news-today.com/1454.html より引用


距離的に考えると、メソポタミア、エジプト、インド、中国の文明はあまりにも遠いように思えますが、地球の円周が40075kmで、人間の歩行速度を時速4kmだとすると、約417日、つまり一年二カ月足らずで地球一周できてしまうのです。
そう考えると文明の発祥が一ヶ所で、それを人間が歩いて世界中に広めたと言う説は、かなり現実的に思えるのです。

そもそも人類とは「歩く動物」で、原始的な定住生活を送る一方で、どこまでも歩き続けることでその分布を世界中に広げて行ったのです。
 
現代の研究によると、まず人類の祖先が約700万年前にアフリカで産まれ、それが世界中に広がっていくつかの人類種に分岐したのです。

そして約20万年前にアフリカで現生人類であるホモ・サピエンスが産まれ、それがその他の人類種を駆逐しながら世界中に広がったのです。

ですから人類の発生はアフリカの地で二度起こり、二度とも世界中に広がったのです。

そう考えると文明の発祥もメソポタミアの一ヶ所で、そこから世界中に伝播したと考えても、全くおかしくはないのです。

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最初に発生したメソポタミア文明で「文明のエッセンス」を学んだ一部の人間が、何らかの理由でその地を離れ、新天地を求めてひたすら歩き続け、あるいはその移動が何世代かに渡って受け継がれたのかもしれません。

ともかく、そうやって途方もない年月を費やして新天地に辿り着き、そこで新たな文明を築く頃になると、「文明のエッセンス」はさまざまに変形し、独自に発展してゆくのです。

例えば「小麦」の栽培が「米」になり、「羊」の飼育が「鶏」になり、「楔形文字」が「アルファベット」や「漢字」になったりするのです。

いや実は「文字」の起源は「数字」であることが明らかになっており、「数字」で数を記録することによって農業の収穫物を管理し、人民に分け与えることができるようになり、それがシステムとしての「文明」を支える基盤の一つとなったのです。

ですから「数字の使用」こそが「文明のエッセンス」であり、それだけを伝播させれば、各地で「独自の数字」が使われるようになり、やがてそれが「独自の文字」へと発展するのは必然的な結果だと言えるのです。

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あるいはまた、例えば「縄文人」と言えば日本列島に固有の民族で、固有の文化を独自に作り上げたようなイメージがありますが、最近の研究では縄文人のルーツは一つではなく、日本列島に複数のルートから異なる民族が何度かに渡って上陸していたことが分かっています。

また、「縄文人」として日本列島に定着した後も、海洋貿易を通じて大陸や半島など周辺の民族と盛んな文化交流があったのです。

一つの例としては、朝鮮半島の遺跡から、縄文人から伝わったとしか思えない黒曜石の石器が発見されたりしてるのです。

ですから一口に「縄文人」とか「縄文文化」と言っても、他から隔絶され独立していたのではなく、さまざまに複雑なものを含んでいたのです。

縄文に限らず、人類のさまざまな文化や文明は、それぞれの地域で独自に発展しましたが、一方ではお互いにさまざまな交流があり、影響し合っていたのです。

ですからそれぞれの文明は「閉鎖系」としての性格を確かに持ちながら、同時に「開放系」としての要素を持っていたのです。

日本の江戸時代を考えてみても、幕府が鎖国政策していたという意味では「閉鎖系」でしたが、出島を通じてオランダ人と交流してた点を見ると「開放系」でもあったのです。

また日本へ稲作や文字などの「文明」が伝えられたのは、当時の先進国である中国からだとされていますが、その中国文明にしても元を辿れば「メソポタミア文明」から伝えられたものだと考えると、日本文明は中国文明を介してメソポタミア文明と繋がっているのです。

それはヨーロッパ文明諸国も同様で、全ての文明はメソポタミア発祥の「文明のエッセンス」を共有し、それを土台にそれぞれ独自に発展したのです。

だからこそ、江戸末期に日本を訪れた欧米人は、自分達とは人種も文化も全く異なる日本人が、自分たちと同様の「文明人」であることを認めざるを得なくなり、植民地政策をあきらめたのです。

さて、以上のような前提を踏まえて、次回(多分)は本題であるところの【日本の浮世絵が近代絵画や写真に与えた影響】についてお話しできればと思います。