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貴族主義と資本主義・現代の「現代アート」はなぜつまらないのか?

最近の現代アートはつまらない。つまらない作品が非常に高値で取引されていると、そんな釈然としない思いの方は、私以外にも少なからずおられるのではないかと思います。

今回はこのことについて考えてみたのですが、それが「貴族主義」と「資本主義」の関係で、端的に言うと、資本主義が貴族主義に「復讐」をしているんじゃないのか?と思い付いたのです。

(今回も上記の動画を元に記事を書きました。アドリブのしゃべりをアレンジしてるので、その違いもお楽しみいただけます。記事は後半から有料(100円)ですが、YouTubeは全編無料で視聴できますので、応援していただけると大変に助かります。)

もともと美術というのは、貴族主義として発展してきたもので、それはニーチェの『善悪の彼岸』で述べられた次の言葉からも分かります。

資本主義が始まる前、民主主義が始まる前はヨーロッパでも日本でも、封建主義の貴族社会でした。

そして美術を含む人類の文化というもの自体を、王侯貴族が担っていたのです。

それがいわゆるハイカルチャーで、美術のほか哲学などもそうですが、身分の高い人たちが文化を作ってきたと、大雑把に言えるわけです。

それに対して資本主義というのは、ひとつは「身分制度の改革」だといえます。

貴族社会において人間の上下の価値、すなわち身分を決めるのは生まれながらの「血統」です。

血統によって先祖代々の身分が固定されていたわけですが、資本主義の時代になって「お金をたくさん儲けたやつが偉い」ということになると、もう血統は関係ないのです。

だから「誰にでもお金持ちになるチャンスがある」のが資本主義で、これがそれ以前の血統主義とは違う、人間の順列を決める新しい基準になるのです。

私は芸術のパトロンの歴史について述べられた、高階秀爾著『芸術のパトロン』(岩波新書)や、海野弘著『パトロン物語―アートとマネーの不可思議な関係』 (角川oneテーマ21) とを読んだのですが、それによるとまず産業革命があって、そしてフランス革命があって、新しい「市民階級」というものが登場します。

つまりお金を儲けて、それによって世間的に力を持ってきた人たちが、貴族に代わって台頭してくるのですが、その新しいお金持ちには貴族が身に付けていたような「教養」が無いんですね。

「お金は持ってるけど教養が無い」ということに、新興成金たちは引け目を感じていて、その時代がざっくり言うと19世紀から20世紀の初めにかけてです。

例えばアメリカは近代における新興国家で、王侯貴族の歴史がない代わりに、新しいお金持ちたちの力によって国際的に台頭してきた国家です。

石油王であるとか鉄道王であるとか、そういうアメリカの大金持ちたちは、芸術の教養をアドバイザーを雇って教わりながら、王侯貴族に代わって芸術の名品のコレクションをしたのです。

ヨーロッパの古典や、輸入されたばかりの日本美術、当時の前衛芸術だった印象派絵画など、さまざまに権威のある芸術作品をコレクションし、そして私設の美術館を作ったのです。

アメリカの大金持ちが私設の美術館を作るのは、実は私利私欲のためよりも、自分の死後もそのコレクションを残すことによって「アメリカを偉大な国にする」という目的があって、そのために大金を投じたのです。

そしてさらに、そのようなアメリカの美術館から学んだ若者によって、アメリカ独自の現代アートが産み出され、そして現代アートの世界でもアメリカが覇権国になっていったのです。

しかし、そうやってアメリカの大金持ちたちが、アメリカを偉大な国家へと作り上げると、そこで目的が達成されるんですね。

その結果、これは社会学者のエマニュエル・トッドも指摘していたのですが、現代のお金持ちは目標を見失っているのです。

だから現代の金持ち、現代的なビジネスで新しくお金持ちになった層が高額でアート作品を買う際に、どんな作品を何の目的で買うのか?が「近代のお金持ち」とは違ってくるのです。

そうすると、今の時代の大金持ちが買うような高値がついてるアート、日本人アーティストで言うと村上隆さん、奈良美智さんが世界的に評価を得てますが、まぁ正直どちらの方の作品も、私にはちっとも良いとは思えないのです。

むしろこんなに良くない作品が、なんでわざわざ何億、何十億という、馬鹿げた値段で取引されてるのか?と疑問に思ってしまいます。

これについてあらためて考えてると、まず近代になって新しく登場したお金持ちが、それまでの王侯貴族に代わって社会的に高い地位を占めるようになります。

つまり資本家が貴族階級に成り代わっていったのですが、その際に貴族の趣味を引き継いだのです。

ところが、貴族階級の価値体系というのは非常に難しく、つまりさまざまな芸術作品のうち、どの作品が優れていて、どの作品が凡庸なのか?という価値判断をするには、膨大な知識と経験が必要で、それをまとめて「教養」というのです。

そういう難しい貴族主義の価値体系対して、資本主義の価値はお金による数値で示されますから、簡単で誰にでも分かるのです。

もちろん資本主義以前の封建主義の世界にも貨幣があって、貨幣による簡明な価値体系がありましたが、同時に貴族主義的な教養の価値体系も存在していたんですね。

ところが資本主義も時代が進むと、貨幣による価値体系がどんどん力を持って人を支配するようになります。

これに対し教養の価値体系は、難解で学ぶのに努力や忍耐が必要で、そうなると多くの人々は面倒くさがって何も学ばなくなり、そうなると教養の価値体系も弱体化していくのです。

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