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いまこそドラマ『チェルノブイリ』を見るべき理由


※今回のお題3つ:『チェルノブイリ』『シン・ゴジラ』『全裸監督』

ウクライナ現地に行って知った「反響」の大きさ

「あなたも『あのドラマ』を見て、チェルノブイリに来たのですか?」

 昨年8月、取材旅行で訪れたウクライナで、会う人会う人にこう尋ねられました。

 チェルノブイリ原発から40kmほどの村・オラネで民宿を営むゾーンガイドのセルゲイさんも、イワンキフ市の公務員でサマショーロを担当するオラガさんも、キエフを案内してくれたヴィクトリアさんも、決まって「あのドラマ」の話題を振ってきました。

 サマショーロとは国から居住が制限されているチェルノブイリ原発から30kmの帰宅困難地区(通称:ゾーン)に、なお住み続けている人たちのことです。どうしても、故郷を捨てることができなかった人たち。取材でサマショーロの村も訪問しましたけれど、お話を聴いたソフィア婆さんはさすがに「あのドラマ」の話は出ませんでした。この取材の話は、改めて書きます。

「あのドラマ」とは、その名も『チェルノブイリ』(3月4日にDVDがリリース)のこと。1986年に起こったチェルノブイリ原発事故とその後の危機対応を、実在の科学者・ヴァレリー・レガノフを主人公の一人に置き、史実をベースに、リアルにそしてスリリングに描いたドラマです。

 2019年4月にアメリカのケーブルテレビ局、スターチャンネルで放送されると世界的に大ヒット。先日、映画の祭典・アカデミー賞では本命不在の下馬評の中、韓国映画『パラサイト』が作品賞などを受賞し大いに沸きましたが、ことドラマ部門のあるコンペティションのほうでは、『チェルノブイリ』は大本命でした。そして下馬評のどおり、エミー賞、ゴールデングローブ賞を総なめしたのです。
 
『SEX AND THE CITY』『ゲーム・オブ・スローンズ』などヒットを連発するHBOが制作、監督は『ウォーキング・デッド』のヨハン・レンク、そのタッグがかの世界史的な事故を描いた超大作――の割には、日本でのリアクションはイマイチのように思います。それはおそらく作品のクオリティの問題ではなく、「見る前のハードルのせい」でしょう。

 というのも、日本での放送開始は2019年9月、スターチャンネルの看板コンテンツとして複数回放送されたものの、わが国はアメリカほどケーブルテレビが根付いておりません。他に視聴する方法としては、アマゾンプライム内にあるスターチャンネルで月額契約する、もしくは同チャンネルで有料で購入、レンタルするしかありませんでした。アマプラや、ネットフリックスでの無料配信だったらもっと話題になっただろうに、と思わされます。3月4日にDVDがレンタルリリース開始されるので、もうちょっと視聴者が増えると良いのですが。

 先に結論を言うと、このドラマ凄まじく面白いです。そして、いまこそ日本人に見てほしい作品です。なぜかといえばこの作品、簡単にいうと、

 突然起こった人類史上未曾有の原発事故。しかし初動対応から大混乱。このままだと国境を越えた大惨事、人類破滅にだってなりかねない。その大惨禍を食い止めなければいけないという状況で、一人の科学者が立ち上がり、協力者を巻き込んで被害拡大を止めるための国家的プロジェクトの責任者となって困難に立ち向かう。事故は早々に、隠蔽体質で自分たちの理屈に固執する政治家や官僚、そして事故現場の「無責任な責任者」たちが引き起こす「人災」の様相を呈し、不正や無策やミスによって増えていく被害者たちの悲劇を突きつけられながら、主人公の科学者は自らに身の危険が迫る中、当時のソビエトが抱えていた構造的な「根本の問題」に気がつき、とある結論に至る――。

 というドラマだからです。

 もちろん、史実に基づいたドラマですのでネタバレ云々なく結末は私たちも承知のはずなのですが、全5話のドラマを見終わると――特に最終話のラスト数分を見たあとには――誰もが強烈なメッセージを感じることになるでしょう。いまの日本を生きる私たちであれば、なおさら。

ドラマチェルノブイリ

※ドラマ『チェルノブイリ』公式サイト 

チェルノブイリは「観光資源」になっていた

 ウクライナでも放送前から大変な話題となっていたそうで、さらに放送後は、インバウンド消費にも火がつきました。

 ウクライナは、もともと観光立国を掲げています。ウクライナ聖教の聖地であるキエフは、大聖堂などの宗教施設と、ソビエト時代の遺構がミックスされた歴史的な町並みで歩くだけでも楽しいところですし、ガンダム好きにはお馴染みオデッサという海辺のバカンス地もかの国にはあります。

 実際に訪ねてみて分かったことですが、実はウクライナ料理であるボルシチをはじめ、ヨーロッパと中央アジアの文化が交わった食事も大変美味しい。そして何より、物価が非常に安い。ビールも珈琲も、20フリヴニャ(およそ100円)くらいで楽しめます。トランジットのウィーン空港で、エビアンの小さなボトルが3.6ユーロ(およそ450円)だったのを考えると、大変な差です。食い倒れツアーが組まれたり、長期のバカンス滞在地としても、特にアクセスの良いヨーロッパの観光客に人気の国なのです。

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 くわえて近年、国を挙げてチェルノブイリの観光資源化を進めており、いわゆる「ダークツーリズム」(戦争の史跡など「負の遺産」を見学する旅)を打ち出しています。旅行代理店「チェルノブイリツアー」の黄色にアトミックマークの看板が近郊にはいたるところに仰々しく飾られており、30kmゾーン検問には観光のバスが渋滞を起こし、お土産物屋(セルゲイ曰く「ぼったくり」)が賑わっています。事故を起こした原子炉の隣、いまは運転停止している炉の内部を見学することも可能で、事前に手続きはもろもろ必要なのですが、見学ツアーは大人気となっています。

チェルノブイリ原発、実際に中に入って見てきた

 で、19年8月某日、私もツアーに参加してきたわけです。当日は、メディア関係者を中心に8人の日本人グループで参加。30km検問、10km検問を通過し、早めにチェルノブイリ原発に到着して、施設の広場で待っていると、どんどん観光客が集まってきます。漏れ聞こえる会話から、多くはアメリカ人と思われるのですが、最終的に総勢40人くらいの大所帯になりました。

 長年ウクライナで通訳をしている、「8月だけでゾーン内に14回入った」超有能日本人ガイドのGさんもその数の多さに驚いていました。これまでは、「参加者2人でほぼ貸し切り状態、なんてことも珍しくなかった」。Gさんが旧知の現地の原発ツアー職員に聴いたところ、「今日は休み明けの月曜日で人が多い日なんだよ。しかもたまたまキエフの有力者の親族が来ていて、テレビクルーまで入っているから」と、その日は最近でも異例の多さだったというものの、「今年に入ってからの観光客は、昨年の1.4倍になっている」というから大変なものです。現地の認識では「これもドラマの影響だろう」と。

 ドラマの話に戻りますと、当然ながら作品ではまず事故当時の原発の様子が描かれるわけでして、一見して建築物や環境の再現度の高さに驚かされ、「立ち入りが制限されているのに、よくチェルノブイリ原発の現場で撮影できたなぁ、許可とか準備とか大変だったろうに……」「ツアー中に原発内で消息を経った職員の碑を見たけれど、ここのことか……」などと思ったのですが、実は撮影はリトアニアの原発など他の場所で行われていたのとのことで、しかし現地を見てきたばかりの人間が勘違いしてしまうほどには、「よくできた虚構」だったのです。

 たとえば、原発内で輝く「黄金の廊下」という通路(実際は真鍮製)、貯水タンク、コントロールルームなどは、見学したもの(コントロールルームでは、緊急停止スイッチをポチッと体験してきました)と瓜二つでした。CGも高精度なものを使っているのでしょうけれど、現物にしろ、セットにしろ徹底した再現力は驚き、というよりも、あまりに自然で作りものであることを忘れてしまいまいた。

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 リアルさとともに驚かされたのは、ドラマとしてのスリリングな展開です。災害、災禍を描く「ディザスタームービー」に名作、ヒット作は多いわけですけれども、その誘引力の源である、悲劇や人々の痛み、切迫感をどうみせるかは、映像の力はもちろん、構成力、脚本の力が重要です。それが力強く、素晴らしい。

『シン・ゴジラ』が描いたもの、描かなかったもの

 そして、私たちはそんなスリリングさを持った大ヒット作を知っています。逆説的ですが、ここで『シン・ゴジラ』のお話をすこしばかり。

 逆説的と言ったのは、もちろんゴジラそのものが、「原子力爆弾の現実の脅威を仮託された怪獣という虚構の存在」だからで、それを原子力事故を描く作品になぞらえる私の底の浅さはおもはゆいところもあります。ただ、ドラマに登場する、「制御を失った原発から漏れ出る放射性物質を抑えるためのヘリコプターによる投下作戦」を見たときには、ゴジラに立ち向かう自衛隊ヘリを重ねずにはいられませんでした。

 また、シン・ゴジラの主役は長谷川博己演じる官房副長官だったわけですけれども、彼が異能の官僚(高橋一生って正統派イケメンよりも、シンゴジみたいなちょっと変なキャラクター演じてもらったほうがよいように思います)や科学者を巻き込んで国を動かして、絶望的な状況を打開しようとする描写、そのエリート主体の行政プロセス、権力構造の発露の見せ方があの作品の画期的なところでした。

 それは、まさに『チェルノブイリ』にも通じるものです。シンゴジはやり取りのテンポ感の速さも特筆すべき点ですが、『チェルノブイリ』は尺の関係もあって、流石にもっと丁寧で落ち着いて見られます。

 ただ、「現実」の政府は危機下にそううまく機能しないのだな――シンゴジがファンタジーと呼ばれた所以ですね――と、チェルノブイリにも、いつかの、そしていまの、どこかの国にも感じます。さらにこじつけるような話をすると、チェルノブイリ事故時の、共産主義下のジャーナリズムの不在、ソビエトの責任を追及する言動はタブーだったということ(政府は「必ず間違わない」のだから「真実を明らかにする」必然性がない)が、『シン・ゴジラ』の大規模な災害下、明らかな脅威に対する挙国一致で「マスコミが必要なくなった世界」(あまりに牧歌的な松尾スズキのブラックジャーナリスト!)と重なって見えたりもします。

 脱線しますが、『シン・ゴジラ』冒頭で姿を消していた科学者(私の頭の中の配役は岸田森)を主役とするもう一遍をイメージしてもらうと、私は嬉しい。政治をきちんと描く(本当は「行政」のほうに重きがある気がしますけれども)という点は、特撮映画の金字塔・平成ガメラが突っ込もうとして描ききれなかった、唯一欠けていたものを十二分に補うどころか昇華したものだと考えていたのですが、そのリアリティは突き詰めれば高質な史実ベースのドラマに行き着いてしまうのだなとも。これは蛇足もいいとこです。蛇足って表現、蒲田くんみたいですね。

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※『シン・ゴジラ』公式サイト 

『全裸監督』は名作だけれど

 さて、もう一つ私たちの見知った作品についてお話したいと思います。2019年、日本でもチェルノブイリ原発事故と同じ時期の史実を基にしたドラマが流行しました。ネットフリックスで配信された『全裸監督』です。

 伝説のAV監督、村西とおるの半生を、バブル下の狂乱する日本(ポルノ! ヤクザ!)を背景に描いており(村西とおる監督、黒木香主演の3部作は1986年発売です)、こちらもスリリングな脚本力、どちらかというと実直というよりも多分に演出のエッジの効いた、そしてカネがかかっていそうなバブル日本の「再現」、村西監督を演じた山田孝之を始めとした役者たちの怪演もあって、一気観必至のドラマでした。

『チェルノブイリ』と『全裸監督』は、たまたま同じ80年代中盤から90年代にかけてがメインの舞台となっています。ふと、30年というのは、歴史が物語化しはじめるだけの期間なのではないかと考えさせられます。

 ところで私たちは、これらの名作と言えるドラマの「面白さ」を甘受しているだけでいいのでしょうか? 実はここからが本題です。もう残された紙幅は僅かなのですけれど。

『全裸監督』は面白いです。でも、私たちはこの物語がノンフィクションをベースにしてはいるけれど、フィクション作品であることを知っています。いまも語り継がれるAV女優・黒木香を演じた森田望智の熱演は素晴らしかった。けれど、実在の人物でご存命、芸能の世界を引退した方に了解を得ないまま作品化したことに議論もありました。

 当時を体験していない身で言うのも憚られますが、『全裸監督』では、描かれなかった抑圧の構造であったり、あえてオミットされた部分も見受けられました。ドラマ配信後には、現実の村西監督が「時の人」のようにメディアに登場しました。しかしはたして彼の普段の差別的な言動などを考えた上で、各社は出演させていたのでしょうか。それは疑問です。

 さて『全裸監督』を見て感じたのは、史実をベースにしながら「現代にも通じる普遍性」(例えば、女性の性の解放)で強固に脚色された「面白い物語」が、歴史を上書きするなんとも言えないもやもや感です。もちろん現実と虚構の違いは受け手のほうが、はっきり認識しなければならないという前提をもちながら、ですが。再現性であったり、芝居の説得力や「面白さ」、そして「現代にも通じる感覚」が、境界線を、意識できないところでぼやかしてしまう。これはおよそ30年前という「今でもないけど、昔でもない」もしくは「今でも昔でもある」射程の問題もあるかもしれません。

 大河ドラマを見ているときには、たとえば「戦国を終わらせて平和な世の中を目指す主人公」に「いや、あの時代はできるだけ大きな権勢のために暴力を利用しただけじゃない?」と思ったり、「家父長制にめげず主体的に行動する女性主人公」に「現代の人権感覚を押し付けてない?」と思ったりするものです。が、なまじ近い時代だと、「物語化」の強弱を判断することも難しくなってしまう。現代を舞台にしていれば、そのズレはもっと可視化されやすい――物語化の工夫に質の違いが現れる――のだと思いますけれど。『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実対虚構」が、何が現実で何が虚構なのかを問うたように。

『チェルノブイリ』のように福一を描く日はくるか

 さらにいえば、時間以外の射程もあります。『チェルノブイリ』で英雄的に描かれるレガノフについて、実は、チェルノブイリ事故の研究者からは「実際はあんな立派な人物ではなかった」という声も挙がります。冒頭に紹介した、私が会話したウクライナの市井の人たちは決まって「あのドラマは真実を丁寧に描いている」というものの、研究者は「事故当時はソビエトが情報を伏せていて、ウクライナ建国後だってすべてが明かされたわけではないだろうに、なぜ真実だと思えるのか」と疑問を呈します。ましてや日本人の多くはウクライナの、チェルノブイリの歴史を知らないですから、現実と虚構の境目が一層つけづらい。もちろん、ウクライナの人にとっても、その意識のうちのでの、当事者故の「近さ」が邪魔をすることもあるでしょう。

 さらに一点。いくらかの年月を経て、あの福島原発事故を丁寧に描いた作品が私たちの前に提示されたとしたら。その時、日本人みなが「真実を描いている」と思うとしたら、きっと「物語化」が達成され「共有」されたことになるのかもしれません。それが、美化されていたり、その時を生きる人の感性に合わせた普遍性を入れ込まれたとしても。そこに批判や無批判が付着していたとしても。置き去りにされた生身の人々がいたとしても。歴史を物語にするという営為は、頼山陽ではないですけれど、享受するその時代の人々の多面な「面白さ」に左右されながら行われるのでしょう。

 そして、「歴史」と「物語」との微妙な関係は、まさに現前にある。その関係を、リアルに見せられているというのが、2019年の名作ドラマを見て感じたことでした。

 もちろん、フィクションはフィクションとして楽しめよ、とは思いつつですが。でもいくら武装、用意しても、隘路をしっかりと見定められているかといえば、分からない。国の正史すら多分に「演出」された神話的なものだと割り切るとして、記録映像や、大昔の人々の日記にこそ真実があるかといえば、たとえば清少納言の書いた日記が果たして宮中の「現実」だったかどうかは疑わしいと思ってしまう(特に彼女の場合は天才的に盛ってんじゃねぇかな、とか思ってしまうので例としては不適切ですが……それゆえ魅力もあるわけで)。目的を持って作られた「客観性」だったり、ツイッターのつぶやきが「本当の歴史」になるのか、という問いと同じです。少なくとも公的な文書、行政文書はきちんと残したいものです、というと話はさらに逸れ過ぎますね。

 少なくとも私の場合は、『全裸監督』で働いた違和感のセンサーは、『チェルノブイリ』では働くことはなく、視聴後には、シンプルに最初に書いたような「リアルさ」「面白さ」にうちのめされる経験をしてしまいました。極端なまでに再現度が高く、ドキュメンタリーと見紛うばかりの映像作品。あまりにもクオリティの高い演出のされた作品。そんなものを前にした時の感動がはらむ、一種の恐ろしさ。それは作品を毀損するものではもちろんなく、重ねていいますが、受け手が繊細な自己愛で傷ついたふりをするのではなく、冷静に受け止めればいいだけの話なのですけれど。

歴史とフィクションと、批評と

 たとえば映画『この世界の片隅に』について、「日本(大日本帝国)の加害の描写を避けた」という批判がありましたけれども、あの戦争被害の描写を見て、「同じように日常を奪われた人々」の物語が、世界中の「片隅」にあったことへ想像力が、作品で描かれた範囲にとどまってしまうものでしょうか。あの爆撃のシーンから日本が中国・重慶へ行ったような加害や、映画に登場する水兵・水原哲が青葉で経験した行為の「相手」に思いが及ばないとしたら、それは作品がどう描いたかの責任ではなく、もはや受け手の責任だと思います。

 もちろん、高い完成度の作品だからこそ、高いレベルの批評もあってしかるべきとも考えます。ただ、付言するならば、「自分だけは想像力が働くけど、他者はそこまで想像できないはずだ」という考え方は、一定は致し方ない面はあるかもしれないと理解しつつも、誰かを「愚かな他者」と決めつける行為には常に自らへの戒めを伴いたいものです。

 さて、蛇足が過ぎて蒲田くんも立ち上がってしまいそうですが、この記事で挙げた作品たちのように、受け手が自らの考えを作品に投影さらに反射させ、自分が何を重視して生きているのか、自分でさえ気づいていなかったものの見方に気づかせ、価値観を揺さぶるような魅力を『チェルノブイリ』も持っています。

 史実の物語化、美化、演出の問題は、これまでの人類の歴史において、「歴史」と「フィクション」の間につねにあったとしても、現代になって物語化の方法論は蓄積され、研ぎ澄まされている。また映像、それに関わる先端技術によって強度を増し、より巧緻に達成され、もっといえば巧妙に仕立てらるようになっている。その時に私たちは、よりクリティーク(批評的)であらねばならない、と感じます。そう、語彙力失っている場合ではないのです。そう思わす作品でした。

 まぁしかし、再びちゃぶ台をひっくり返すと、『チェルノブイリ』はシンプルにめっちゃ面白いですから、外出を控えたいあなたに、おすすめの作品です。そしてよろしければ、批評というと堅苦しく感じるかもしれませんが、感想を語り合いましょう。私、チェルノブイリを現地で見てきた土産話も話せますよ。(改めてチェルノブイリ話は書きます)

※本稿は、先に個人のフェイスブックに書いた投稿を少しだけ改めたものです。議論が起きている『Fukushima50』を見る前の牽制として。

※今後、だいたい3つくらいの作品をとりあげたなんちゃって三題噺(自分のチョイスで申し訳ないですが)を投稿したいな、と考えております。

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