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牡丹灯籠に思うこと

お盆は牡丹灯籠三昧だった。



まず京都南座で坂東玉三郎。
チケット情報が出た時は「牡丹灯籠」とだけの記載だったので、玉三郎と愛之助の美男美女で「お露新三郎」を演じられるのかな?と早とちりをしてチケットを取った。
実際は「お札はがし」と「お峰ごろし」だとわかり、華やかさに欠けるかな?と少しがっかりしたのだけれど、なんのなんの玉三郎のお峰がとても良かった!
ところどころ笑わせる場面も入れつつ、人間の持つ、業、欲深さ、哀しみへと私たちを引き込んでいった。
特に伴蔵にお札はがしをけしかける時の様子は、昔々に観た玉三郎のマクベス夫人を思い出す情景で、しかもその時よりもずっと静かで凄みがあり深みが増していていたと感じた。

そして、落語の牡丹灯籠
全編を聞くのはもちろん初めて。しかも二日間かけて。
立川談春と柳家三三のリレー形式というのも興味があった。
はじめの「お露新三郎」を談春が斬新な切り口で演じたものだから、後はどうなるのかな?と心配しながら三三を待ったのだけれど、うーーん上手い!すっと自分のトーンに持ち込んで前半のクライマックスが語られた。
二日目は、三三から談春へのリレー。
「お峰殺し」は、先日観た玉三郎の残像を思い浮かべつつ聞くという、個人的には豪華極まりない時間だった。
そして談春の「関口屋のゆすり」彼の得意の台詞回しで、悪人同士のやり取りが語られ、業の深さをしみじみと感じつつ、余韻を残して終わりとなった。牡丹灯籠のお話としては、またこの先があるのだけれど、その先の業の輪廻を想像させる終わらせかただった。

落語の牡丹灯籠の作者である三遊亭圓朝は、恐いのは幽霊じゃなくて生きている人間なんだよ。と言ったとか。
私だって何とか真っ当に暮してはいるが、殺したいほど人を恨んだことはあるし、お金に困った時に何かしらの悪だくみに出会ったとしたら、絶対に手を染めないとは言い切れない。小さなよこしまな心は、いつも浮かんでは消えを繰り返している。
どうして「そうしない」「そうしなかった」のか?私の中の邪悪な心と比べて、わずかにほんのわずかに良心と理性が勝っていたからだけのことだと思う。
何時だって私もお峰や伴蔵、そのほか牡丹灯籠の登場人物になりかねない危うさの中で、かろうじてバランスを保って生きているだけだ。
人間とはそういう危うい儚い生き物であると、圓朝は言いたかったのかもしれない。

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