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”流人(ながれびと)”としての僕の歩む道

▷はじめに

こんにちは。私は『いと〜まん』こと伊藤 奨と申します。このnoteでは、東京にある離島を流れ育った流人の僕が、島の可能性を諦められずにしがみつき、不器用ながらも事業を育てていくプロセスを共有していきたいと思います。僕にとっては当たり前の日常の試行錯誤が、誰かにとっての価値に繋がることがあれば嬉しいです。

新島の森にて。安心してください。履いてます。

▷特殊な生い立ち

東京諸島には有人島が11島あります。僕は幼少期から、伊豆大島→父島→八丈島と3つの島を流れ流れて育ち高校を卒業しました。親が東京都の職員でレントゲン技師で且つ、島への転勤を希望しまくる変態(今では感謝している)だったので、こんなことになりました。なかなかに珍しい、3島のミックスアイランダーとしての形成されました。
"東京の離島"とくくってしまうのは簡単だけれども、ここは南北1,000kmに広がる海域に散らばる島々。島によっての雰囲気や文化の違いを体感して育ちました。転校の時はカルチャーショックに苦しんでついていけず陰気になって、一時的にいじめられた経験もあります。当時は苦しみましたが、この”違い”こそが東京の島々の魅力の一つであることを教えてくれていました。

父島からのお別れのシーン。トラウマレベルで泣けます。

▷流人って?

流人(るにん)って聞いたことありますか?島で育った僕たちには割と当たり前に知っている言葉なのですが。

る‐にん【流人】
〘名〙 流罪に処せられた人。罪により所定場所へ流された人。罪の軽重によって流される場所の遠近に差があった。

コトバンクより

江戸時代には伊豆諸島では、約5,000人弱の人々が流人として島々に来ていた記録があります。主には、新島、三宅島、八丈島が流刑地としてメインでした。
流人の中には、もちろんシンプルな博打や暴力や破廉恥罪などの罪人もいますが、当時の幕府にとって不都合だった人々には、武士や僧侶、知識人も多く含んでいました。そんな流人たちが文化をを運んできて、入り混じって今の文化があります。島に排他的なイメージを持つ方も多いと思いますが、人々は外からの刺激も受け入れて暮らしてきていたのです。

三宅島で初めて神様が着いた場所とされる椎取神社と虹

▷視点を混ぜる役割としての流人(ながれびと)

流人(るにん)の説明をしましたが、僕は罪を犯したわけではない(多分)ので、流人(ながれびと)と読み変えたいと思っています。
海で囲まれた離島では、その土地に代々暮らす人々だからこそわかる深みや知恵があります。一方で、先述の流人の話しじゃないですが、外から流れてきた人々だからこそ持てる視点やアイデアが文化を発展させてきた歴史もあります。どちらも大切なのです。
僕自身は、流れ育ってしまったことでどこの出身とも名乗りきれず、流れてきたことにコンプレックスを持っていた時期もありました。しかし、島と島との"流人(ながれびと)だからこそ"できることもあるのではないかと思えて、その可能性に賭けてみたくなって、免許まで取って敷かれていた教員という安定したレールを捨てて、挑戦することを決めました。

島という小さな世界の中では、どうしても「虫の目」中心の思考になる

▷挑戦の起点となった出来事

僕は高校時代は八丈島で過ごしていました。八丈高校時代は、まがいなりにも生徒会長なるものを務めていました。2008年、三宅島出身で大島海洋高校に進学していた穴原くんから、「伊豆諸島の高校生を繋げる企画をやりたい」と打診を受け快諾。その後高校生自らで予算も獲得し、2008年夏『伊豆諸島ドリームプロジェクト』と称して、伊豆大島に88名の伊豆諸島の高校生が集い交流し島の未来を語るという出来事が生まれました。僕自身は企画だけ参加しましたが、「受験だから」という理由で学校から許可が降りず、後輩たちを送り込みました。しかしこのイベントに関わったことで、島と島と壁はいい意味で崩壊した世代となり、今の僕の事業まで繋がっています。島と島での交流は意外にも少なく、関わったとしてもスポーツの敵として関わることがほとんどの文化で、建設的な関係性を高校時代に創れたことは僕たちの財産となっています。

東京諸島連携での地域づくりを考える起点となったイベント

▷島間の交流を続け、一部メンバーで法人化

東京の島で高校を卒業した後は、ほとんどの人が上京し大学・専門・就職などをします。離島でピュアに育った島人たちは、都会でいきなり孤独な生活を余儀なくされます。そんな時に心の支えとなったのが、ドリームプロジェクトにより繋がっていた島人コミュニティでした。
僕と三宅島出身の山田くんが中心になって、定期的に島人会を開催。横の繋がりを維持してきました。しかし大学を卒業する年代になるとそれぞれのライフスタイルに変化が出てなかなか集まれなくなった時、僕と穴原くんと山田くんで集まりました。結果、この関係性を事業として繋いでいくことを決め、法人化に向けて1年準備した後、2016年4月に「一般社団法人アットアイランド」を起業すると同時に三宅島への移住を決めました。

アットアイランド立ち上げメンバー(左から穴原、伊藤、山田)

▷三宅島での事業展開とコロナ

三宅島で初期に思い描いていた教育事業は、1年トライしたものの、それで食っていくことはできず、観光業にシフト。金も経験も何もない25歳の僕たちは本当にポンコツで、失敗をたくさんしました。しかし、暖かく見守ってくださる方や応援してくださる方もおり、現在、アットアイランドではゲストハウス、シェアハウス、飲食店などを事業として組み合わせて事業を続けることができています。穴原くんは2017年に別に道を選び、山田くんは6年の準備期間を経て2023年に三宅島での治療院をOPEN。
2020年にコロナが到来。観光に依存していた僕の事業も大打撃。待っていても人は来ない状況に。しかし時間を与えられたことにより、現場の仕事に追われて薄れていた『東京諸島が続いていくための環境づくりに貢献したい!』という本当の願いが顕在化。動き出すことになります。

「やりたいことの見つけ方」の公式に当てはめた伊藤の図

『株式会社TIAM』:コモンズとしての船の設立

コロナ禍に与えられた時間を活用して、島々のステークホルダーとなるような方々とお話しする機会をとにかく増やしてみました。そんな時に伊豆大島でトウオンデザインというデザイン事務所を運営する千葉努さんと深く語る機会がありました。
「大きな方向性(ベクトル)の一致」を確認した僕たちは、島の誇りを発掘・可視化して価値を高めていくための船を創ろうと決意。民間としてこの中間支援的なポジションを事業化することに覚悟持つために株式会社化。2022年の1月のことです。
事業の軸として『東京都離島区』というコンセプトのメディアを旗揚げ。もちろんそんな自治体は存在しないのでハレーションもありましたが、港区の先に離島区がある。それくらい僕たちが住む島々を誇りあるエリアだ、という自負を込めました。
具体的には、メディア・コミュニティ・マーケティングを事業として取り組んでいます。
この組織が、時代は変わる中でも、対話によって本質的な道を導くための回路として続いていけるように、鋭意挑戦中です。

株式会社TIAMの創業メンバー(左:千葉、右:伊藤)

▷今後の展望

2024年は、文脈で繋がるエリアとの資源交換が促進されるような拠点やコミュニティづくり、ミスマッチをマッチにする広告事業、メディアの情報強化、商品開発など社員も増員して駆け抜けたいと思っています。

毎日の様に初めてのことに取り組み、初めてましての方に出会います。失敗も成功もこのnote共有していきたいと思います。

▷最後に

起業の初期は、観光をベースとして「島に愛のある人を増やす」ことに専念して来ました。そして今は「島に愛のある人が島に居場所(物理的なだけじゃなく)を創る支援」にシフトしています。
島に住んでいなくても、島を愛してくれるている人がたくさんいることに気が付きました。
「島に住んでいる人だけが島をつくっているわけじゃない」
右肩下がりの人口減少社会を嘆いて佇んでいてもしょうがありません。リソース不足は裏を返せば、一人一人の役割が大きくなるということ。大活躍時代の到来です。島にいてもいなくても、愛さえあれば、”あなただからこそ”の居場所が東京諸島にはあります。
一緒に楽しみながら歩きましょう!

伊豆大島の裏砂漠を仲間たちと登る

これからも様々なテーマで発信していく予定ですので、お時間がありましたら是非読んでいただければと思います。もしよければ「応援いいね!」もよろしくお願いいたします!

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