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泣きながら服を作る経験

前の記事「自分で服を作りたい。28歳で専門学校へ」の続きです。

28歳で専門学校に通い始め、全く新しいことを学ぶことになりました。
石徹白の水力発電など、いくつかの仕事を掛け持ちしていたので、毎日ではなかったけどできる限り通うことを前提に学校の先生に受け入れてもらいました。

私が専門学校に入った頃、一時期は一世を風靡した「洋裁」という習い事はもう廃れていて、学生も少なく、中国人の研修生が多く、かつ中国の子たちはあまり真面目でもなく来たり来なかったりで、この学校で大丈夫なのかな・・・と思うような状況でした。が、かえって少人数のやる気のある日本人の学生を先生が贅沢に教えてくださるという環境に恵まれました。

最初は基礎縫いから。
基礎縫い・・・?!!

針と糸を持ったのは、中学校の家庭科以来・・・
しかも家庭科は大の苦手でした。

なぜかというと、全然うまくできなかったから。今思うと、先生1人に生徒が30人以上もいたら先生もしっかり教えられないですね。それなのに課題が出て、授業で終わらなかったら宿題に。
基本的な縫い方もわからないのに作らなければならなくて、全然綺麗に縫えなくて「あなたは下手ね」的な烙印を押されて終わり。

うまくなれるはずがない・・・涙

私は中学の家庭科の授業がきっかけでお裁縫苦手になったのでした。

ところが、専門学校は(少人数だったからか!?)とにかく丁寧に教えてくださって、細かいところまで教えてもらうことができました。
私が手先が不器用で苦手であり続けたのは(手先が不器用なのは変わらないかもしれないけど)、これまで、裁縫の方法・技術をしっかりと教えてもらえなかったから、とわかりました。

そして上手な先生の手元を見ることができる、というのがとても勉強になりました。

技術を習得するというのは、なんでもそうなのだと思うのですが、達者の技を盗むこと。それは間近で見て真似して学ぶこと。それがなければ、説明を読んでも、レシピに沿って作ってみてもなんだかしっくりこないのです。

加えて、先生はとても忍耐強くて、私が少しでもうまく縫えないと、きちんと解いて縫い直すことを何度も何度も繰り返し指摘してくださって、そのまま進めたほうが教える方も簡単なのだろうに、完璧なものを作り上げるために丁寧に指導してくださいました。しかも、笑顔で。

それでもやっぱり、細かい作業が好きで上手な私より10も年下の女の子と隣に座っていると劣等感満載。
私の方が圧倒的に下手くそな状況に泣きそうになりながらも学校に通って、なんとか一通りの縫製の技術を学ぼうと必死でした。

最初から苦手なことだから、すぐに諦めたら絶対にできるようにならない・・・なんとしてでも途中で投げ出さない!という意地みたいな気持ちと、ものができていく、服が作れるようになっていくという達成感に気持ちが高揚して、なんとか続けることができたと思っています。(そしてやっぱり丁寧で優しく技術の高い先生の存在が一番です!)

ところが・・・
なんとか一通りわかり始めて1年が過ぎ、2年目に入ってから本格的に石徹白洋品店の準備のために作りたいものを作ろうと制作に入った頃、大きなジレンマを抱えるようになりました。

私が学んでいたのは洋服を作る技術。
つまり、カーブでの裁断が基本で、スカートやシャツ、ワンピースなど布を贅沢に使って作っていきます。
一方、私が選ぶ布は手織りや手染めなどの職人さんの丁寧な素晴らしい仕事によってできた布たち。

つまり、選びに選んだ愛着深い布を、ザクザクと切り抜いて作り上げるので、完成品は素晴らしいものになるのですが、そこに残った残布の量のすごいこと・・・

こんなにも布が余るんだ。
そして余った布の形の不揃いなこと・・・
これってどうしたらいいの・・・?!
そもそも布って、経糸と緯糸でできていてまっすぐ切るのが理想なのに、カーブで切ったらかわいそう・・・

なんて布への感情移入が凄過ぎて、ものを作るのが辛くなってきたのです。

洋裁はまず
・デザインをする
・デザイン画を描く
・パターンを引く
・シーチング(白い安い布)で仮の服を作る
・修正をして(時には仮の服をプラス1ー2着作ることも)パターンを引き直したりする
・本番の布で作る

というプロセスがあって、
・実寸大のパターン用紙
・シーチングで作った仮の服(+シーチングの残布)
・本番の布の大量の残布
が最終的に廃棄されるので、学校のゴミ箱は1日でゴミだらけ。

服づくりはゴミづくりなんだ・・・ということを知ったのです。

卒業する頃、慣れもあって、そんなもんかなあ。
ものを作るってそういうことなのかなあ、という半ば諦めにも近い気持ちで受け入れ始めていたように思います。
けれど、やっぱりこの方法で服を作り続けるのは、私の精神衛生上良くない、これだったら続けられないかもなあ、とぼんやり思っていました。

この後、石徹白のおばあちゃんから昔の服の作り方を学ぶことになるのですが、この経験があったらこそ、地域に伝わってきた「たつけ」の作りに感激し、この素晴らしい日本人の知恵を継承し広めていくことが、私の使命だと思うに至ったのです。

とここまで書いて、とても懐かしい気持ちになりました。
服を作る準備期間。その時間もとても貴重なものだったし、専門学校での経験がなければ、今はない。

全てのことに意味があって、全てのことがつながっていくのですね。
だから苦しい、辛い、嫌だ・・・ってその時はしんどい経験こそ、後に生きてくるんだと思うのです。そう思えたら、強いですね。何にも怖くないし、なんだって糧にできちゃう。といつも前向きな私です!笑

実はこの小さな専門学校のつながりで、今、うちのパターンをひいてくださっているパターンナーさんと、とても素晴らしい縫製をしてくださっている方と出会うことができました。

出会いとは不思議なものです。こんなふうにつながっていくなんて、その時は全く想像もしていなかったけど、今となってみたらとても貴重なご縁をたくさん与えてくれた素晴らしい学校でした。

私が通う頃、創業者の女性は80を超えてもまだ現役で学校にいらっしゃいましたが、「20代の時に娘をおんぶして始めたのよ」と語るおばあちゃんはかっこよく、まだお元気でしたらその時のことを聞き書きしてみたい、なんて思っています。

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