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自分で服を作りたい。28歳で専門学校へ


石徹白に出会い、小水力発電の仕事を始めたことで、ありがたいことに
地域の中で何人かの素晴らしい方達とお仕事をさせてもらいました。

発電に必要な工作物は自分達で作ってしまう”甲斐性”を持つ石徹白の人たちに惚れ込んで、移住の気持ちは確実に。

そして私は、自分自身が何を仕事にしてどうやってここで生きていきたいかを考えるようになりました。
移住したいと最初に思った時の「妄想」をより一層深めて、具体的にしていくことをしていきました。

これまでエネルギーのことをやってきた私としては、仲間と共にやってきた「じぞけん」で「衣食住エネルギー・福祉・教育」はある程度地域の中で自給した方が良いという結論に至っていたので、その中で何か・・・と考えました。

エネルギーはその中でも遠い存在であまりイメージできなかったのですが、石徹白での経験を経て、なんとなく、身近なものになっていました。

エネルギーの次に遠い存在だったのが「衣」でした。

服は毎日身につけるものだし、自分を表現する最たるもの。だけど、今身近に手に入る服ってどんなものかというと、デザインや色、値段を見て購入するかどうか決めるしかないという選択肢の貧弱さ・・・。誰が、どういう思いでどういうプロセスで作っているものなのか、全く見えないブラックボックスだと思ったのでした。

服を作りたいことの理由はほかにもいくつもありました。

・服が好き
・アトピーがあって、着られない服が多かった
・石徹白では昔、縫製工場があって女性の仕事になっていた


服が好き
自分が普段着る服はやっぱりこだわりたい。思えば、小学校高学年くらいの頃から、どんな服が着たいのか、こだわりがあったように思います。
高校生になると学校帰りにパルコ(岐阜にまだパルコがあった時代!)やセンサ(これも今はもうないけど・・・)に通って、服を探しました。時には母と一緒に名古屋に行くことも。
今思えば女の子ってみんなそうなのかな。服選びはとにかく楽しかったけど、これ!と思うものがなかなか見つからなくて、とても時間をかけて探したことをよく覚えています。

アトピーがあって、着られない服が多かった
高校生の頃からアトピーになり、市販の服が痛くて着られないことが多かったです。結婚する頃も、背中のあたりがボロボロで、露出の多いウエディングドレスは着られなかったことが残念でした・・・。
アトピーだけではなくもともと敏感肌だったので、裏側の縫製糸がナイロンでかつロックミシンの始末が多いとちくちくして無理・・・。着たいと思う服が着られないジレンマに苛まれていたので、私でも着られる服を作りたいと思っていました。

石徹白では昔、縫製工場があって女性の仕事になっていた
ぼんやりと、仕事をつくるなら石徹白でほかにも働きたいと思える人の職場になるといい、と思っていました。
そんな時に出会ったのが石徹白すみえさんでした。彼女は今でも縫製工場を持っていて、かつては何人も縫い子さんがいてたくさんの服を縫っていたそうです。(今は縮小されていますがお仕事は続けられています)
雪が多い地域だからこそ、冬でも縫製の仕事ならできるし内職的にいろんな人と仕事ができるのもいいのかもしれない・・・とすみえさんのお話を聞いて考えました。

こんな理由から服を作る仕事をしよう!と思い立ったのです。

しかし・・・

実は私、とても不器用なんです。
小学校・中学校の家庭科ではミシンが本当に苦手で。私がミシンを触ると壊れる・・・とクラスのみんなの認識があったほど苦手で、隣の男の子が器用にミシンで何かを縫っていたのを見て、目ん玉が飛び出そうになったことが今でも記憶にあります・・・。
家庭科の成績もとても悪くて苦手意識満々・・・。

苦手なんだけどやってみたい。好きな服を作れないのも悔しい。

そもそも、服を作る、というかミシンを使ってものを作ることを苦手なままにしていたら、一生できない。そんなのは嫌だ!と思ったのです。

だからもし本当に服を作るなら、1から(いや、0から)きちんと学ばなければ私には無理だろうと考えました。

この時、私は28歳。30を前にして、20代のうちならなんでも新しく学べる!という気持ちもありました。そこで思い切って服飾の専門学校に通うことに決めたのでした。
(長くなってしまったので続きは次のnoteに書くことにします。次の記事は「泣きながら服を作る経験」です。)


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