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2001 学生時代、カンボジアを訪れる【後編】〜森本喜久男さんとの出会い〜

前編では、私が初めてカンボジアを訪れたことを書きました。

そして、「メコンにまかせ」という一冊の本と出会い、これを書いた森本喜久男さんとお会いしたい!と強く思ったのです。

本を読んでいて私が感銘を受けたのは、森本さんがカンボジアに住む人たちと一緒に汗を流し、ここの土地に伝わってきたけど内戦で失われてしまった伝統織物を復活させ、それをベースとしたものづくりで暮らしを立てているということでした。

図書館で本を読み漁っていた時、鶴見和子さんの「内発的発展」という本に大いに共感していました。それまでの欧米型のライフスタイルを持ち込んだ発展途上国の「発展」を支援するのではなく、その国、その土地の自然や伝統を中心としたそれぞれの発展を促すことの大切さを語っているものでした。

森本さんはまさに彼女の言う「内発的発展」を目指した活動をされている!と感じて、すぐさま彼の話を聞きたいと思ったのです。

森本さんにすぐにメールをして、私はカンボジアに行きました。森本さんはユネスコの調査を請け負い、まだ地雷が埋まっている土地をバイクで回り、いかに素晴らしい織物がこの土地にかつてはあったのか、ということを調べ回ったそうです。
内戦では食べるものもない、明日の命もわからないような状況で皆織物を手放してしまったけど、クメールの人たちの精神的な表現でもあった織物をもう一度立て直すことが、ここの民族全体の復興につながると信じて、活動を始められたと教えてくださいました。

そして、クメール伝統織物研究所(IKTT)を立ち上げ、織物をやってきてまだ技術を持っている「おばあ」たちを各地から集め、染め材を買い、お蚕さんを育てたりしながら、織物の復興を目指しました。

私の研究フィールドはすぐにIKTTに決まり、2年生、3年生、4年生と毎年通って、フィールドワークを行うとともに、森本さんが日本で布の展示販売会&お話し会を開催するときのお手伝いをして、少しでも多くの時間、森本さんと一緒にいてお話を聞けるように、と努めました。

カンボジアは暑い国なので、高床式の建物がほとんど。森本さんにお会いしに行くと、風が通るテラスのような2階のベンチに腰掛けて、タバコを吸いながらつらつらとさまざまな話をしてくださるので、私はメモを取り、レコーダーで録音しながらヒアリングをしました。
彼の声はとても穏やかなので、心地よい音楽を聴いているかのような、そんな感覚もありました。

ベトナムコーヒーが美味しいからと、いつも甘いのを出してくれて、周りには自然と集まってきた猫や犬と戯れながら、時にはおやつをもらいにやってくる子供たちの相手をしながら、話をしてくれました。

森本さんとの時間は私にとってかけがえのないものでした。

その高床式の家の1階の土間部分には、高機や糸巻きなどの機織り道具がいくつもあり、作業をしている女性らで溢れていました。
拡張して、隣の建物も手に入れて、作業のスペースが広がっている状況でした。

シェムリアップの街中にあるこのスペースは手狭になってきていました。働きたいという人がたくさんやってくるので日々、面接などをして、家庭環境が厳しい人から順番に受け入れていました。

森本さんはある時、私にノートの1ページを見せてくれました。
「僕はね、将来、こんなふうなのを描いているんだ」

それは広大な土地を田舎に購入して開拓し、織物の村を作るという構想でした。

カンボジアで伝統的に行われてきた織物は、全て自然の恵みで成り立っています。お蚕さんを育てて糸をとり、周りの植物で糸を染め、機織りをし布を仕上げていきます。

シェムリアップは街なので、その中ではかつてやられていたような織物はできない。もっと広い土地で染め材を育てるところからやっていく。織物に関わる人たちの家も作り、その人たちが食べるための小さな畑を開墾し、池があるから魚を養殖することもできる。まずは道を作るところから始める。

2001年に、この構想をもとに既に土地を購入し始めていた森本さんは、2002年に初めて訪れた私をその「荒野」に案内してくれました。そこには、ただ1軒の小さな高床の家と、脇には人一人くらいが登れるくらいのツリーハウス、そして、お蚕さんの餌となる桑の木の苗木が置いてありました。

森本さんの構想のスケッチとは程遠い、地雷除去が済んだばかりの荒野に佇んで、私は、この人は大丈夫か・・・と正直、思ったのでした。

しかし、毎年カンボジアに行くごとに、みるみる風景が変わっていきました。1軒しかなかった家が2軒、3軒と増え、高機や糸車も移動して、少しずつシェムリアップの街から人々がこの土地に移住してきていたのです。

ガタガタで大雨が降ると浸水してぐちゃぐちゃになってバイクではないと行けなくなるような道をお尻を痛めながら走ること1時間。誰も住んでいないような土地に命の息吹が芽生えてきたのです。

森本さんはこの荒野から村になりつつあるこの場所を「伝統の森」と名づけていました。木を植え、森を築き、そこから恵みをいただいて織物を生み出す村です。

私がここを最後に訪れたのは、2017年4月のこと。100人近くの人がここに住み、子供たちが増えたので学校ができて、お客さんが訪れるからゲストハウスも完成していました。

具体的な構想があれば実現する。

私は1年ずつ様変わりしていくその「荒野」の様子を見て、そう実感したのです。



森本喜久男さんは、残念ながら2017年に亡くなられました。長男出産の2012年以来、なかなかカンボジアには行けませんでしたが、2017年4月に仲間と家族と一緒に訪れることができました。それが森本さんとの最後の時間となりました。

この訪問の時に、ここの「伝統の森」で私は”圧倒的な幸せ感”を感じました。
ここにいるだけで幸せに満ち足りている。穏やかで優しい気持ちになれる。私はそれはどうしてなのだろうかと滞在中、考えていて、最後に、森本さんにそのことを伝えました。すると、
「土地の伝統や自然の中で、身近な人、周りにいる人と力を合わせて働くことが、幸せにつながるんだよ」とおっしゃいました。

私はハッとしました。今は、インターネットを通じて遠いところから何でも買えるし、遠いところの人と交流もできます。けれど、身近にある自然や身近にいる人との関係性は薄れている。そんな社会になっているように思っています。

しかしながら、日々の暮らしの中で、周りの自然の恵みを感謝の気持ちで受け取り、近隣の人と交流するという小さな幸せの積み重ねこそが、私の感じた”圧倒的な幸せ感”に通じるのです。

私が石徹白洋品店の「描いている未来」に記している一つ、
・幸せに暮らし働ける場を
と言うのは、まさにこのIKTTでの学びから来ています。

そう、私は、森本さんがカンボジアで実践してきたことを、この石徹白という土地でこの地域に即した形で追随し、今の時代、ここだからこそできる新たな創造を加えていきたいのです。

彼の逝去後、伝統の森の存続を危ぶむ声もありましたが、彼の意志を継いだ日本人の女性がそこに住み、その村でのものづくりをさらに発展させる形で現在も活動されています。(毎年11月に京都の法然院というお寺で展示販売会を行われています。今年は11月13日で間も無くです!)

今はなかなかコロナ禍で海外へ行きにくい状況ですが、再びカンボジアの伝統の森を訪れ、森本さんが遺したもの、そしてその発展の現場に身を置き、学びをさらに深めていきたいと思っています。

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