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生きている料理

今月のdancyu。巻頭ページに作家の角田光代さんが、「美味しい、まずいとは関係なく、生きている料理と生きていない料理がある」という書き出しで文章を書いてらっしゃった。その表現に、そのページに思わず引き込まれた。

記事を読んだ後から、一日三回行われる食事について私も考えるようになる。

ある日、ビーチタウンにある、目抜き通りを歩いていると、ちょっとこの街には似つかない、都会的なワインビストロが目につき、その日の夜、夫と二人で足を運ぶことになった。

ディナータイムのみ開くそのお店は、ワインレッドの色をした壁に、カウンターが四席で、奥には煉瓦で積み上げられた炭火焼きのスペースがある。メニューを見ると、「魚は一本釣りのみ、野菜はローカルを使っています」と書いてある。見れば、いつも同じエリアのマーケットで見かける生産者さんの名前が。そんなローカル愛に溢れているところも私たち好みだった。

カウンターに座ると、二人のシェフと、フィリピン人のスーシェフがオープンな笑顔で挨拶をしてくれた。最低限の照明に、炭火スペースから出る炎が目を惹きつけた。

メニューについて説明を聞きながら、頼むものを考えていると、ふと、シェフの手元に目がいった。
ヒラマサのアラだった。これから焼いて、塩とレモンだけのシンプル味付けをするという。夫がすかさず、「これってメニューに載ってないけど、とても美味しそう!注文できる?」と早速注文。(さすが、釣り人!)

他にはニュージーランドでは珍しいタコの燻製や、ウニの半熟卵乗せなどを注文した。あとは、先住民マオリの族の言語「クマラ」で愛されるジャガイモのオーブン料理など。

「日本のレストランで働いていたから日本のメニューがいっぱいあるんだよー」「魚は、アラまで全て料理に使うんだ。ブイヨンにしたりね」
そんなカウンター越しの会話は楽しい。

大柄な男性たちが、一点を見つめて真剣に小さなスプーンで盛り付けをする手が美しい。
それに、どの料理を運んでくるのにも、シェフ直々のさりげない会話と、質問したら返ってくるこだわりがあった。

帰り際シェフから「きょうの料理で一番美味しかったのは何?」と質問があり、私たちはそれぞれに答えた。

お店を出て、外の空気を吸いながら「良いお店だったね!最高に当たり!」と喜びを分かち合った。満たされた夜だった。

角田さんの「生きている料理」という言葉を思い出す。その条件の一つは、作り手と食べる側に「生きている」会話があることなのかも、と思った。原始的だし、精神論みたいだが、やっぱりそこに会話があるから、食べる側は、料理を記憶するのだと思う。
逆も然りで、作り手だって食べる人の顔を見るだけで、「この人のために作る」という意識が向くから、きっと料理が美味しくなるのだと思う。人には必ず人情があるから。

dancyuの同じ号の別ページに、同じく角田さんの連載で、こんな箇所があった。

「ものすごく高級で、おいしんだけど、なんとなく、ぬくもりを感じられない料理を食べたことは誰にでもあるんじゃないかと思う。ホテルの結婚式で出されるコース料理の八割はそんな感じだと私は思っている。百人、千人と不特定多数の大勢に向けられて作られた料理は、どうしてもそうなるんじゃないかーーーーー料理にかかわすべてのひとが、食べる人をうまく特定出来ないからじゃないか」と。

そうか!と大きく頷きたくなった。そして、やっぱりせっかく外食をするなら、ぬくもりを感じたい。それからというもの、カウンター席の妙を知った私たちは、できるだけ作り手との気持ち良い会話のあるお店に足を運ぼう、と思うようになった。新しくお店を選ぶ際の基準に加わったのだった。

最後に。
後日、私たちはもう一度お店に足を運んだ。店員さん皆が、「戻ってきてくれてありがとう」と顔を覚えてくれていた。私たちはまたカウンター席に座り、五感全てを使って料理を愉しんだ。メニューの少ないお店、かつ、二回目ならではの、「もうきっと、メニューほとんど食べ尽くしたんじゃない?」そんな会話にほっこりした。

お腹も心も満たされた頃、シェフが「はい、これ良かったら」とジャガイモの燻製料理を出してくれた。「前回来たときに、最後一番美味しかったのはこれだって、言ってたからさ!」とシェフからのサービスだった。覚えててくれたおもてなしの心に感激した。

きっとこれからも私たちはまたこのお店に足を運ぶだろう。

「生きている」料理とは、ハッとしたり、心が動く時間があることなのだと思う。