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息子の涙と言語化 #ニュージーランドの湖畔暮らし

2歳半の息子が、久しぶりに幼稚園へ。
それは、日本へ4ヶ月の一時帰国を終えた後の最初の登園日だった。

車で向かった園の駐車場では、身体がこわばって「行きたくないの」と動こうとしない息子。やっとのことで車を降りたと思うと、足は道端で止まってしまう。ようやく「抱っこー!」とせがむ息子を抱きかかえながら園の門をくぐった。

子どもや先生たちの「Kia Ora(キオラ)」(マオリ語で「こんにちは」の意味)や笑顔に懐かしい気持ちになる。園児が息子の名前を呼びながら、駆け寄ってきた。砂場で遊ぶ手を止めて、息子にわざわざハグをしてくれる友だちもいた。

それでも息子は力強く私にしがみつき、離れようとはしない。「まま、帰るね」の言葉で更にしがみつく力は強くなる。「ままに帰ってほしくない?」「うん」と息子。「離れるのが寂しい?」「うん」。息子の目から涙がこぼれ、胸が痛くなった。

園児たちが心配そうに息子の周りに集まってくる。そろそろ本当に帰らなくては。。!と思う頃には、号泣状態。「どうして泣いているのか気持ちを教えて」と話そうとすると、思いもよらなかった言葉が出てきた。「う、れ、し、い、の、、、」と言ったのだ。

「みんな。。。サンドピット(=砂場)。。。きてくれた」と。
単語を繋ぐと「サンドピットでみんな遊んでたのに、自分のところに来てくれてうれしい」との意味だったのだ。
まさか、嬉しさの涙なんだ!と意表をつかれた。「うんうん、そうだね。お友達、優しいね」と声をかけると「うん」と息子は頷く。
最初は寂しさで涙が出たのかもしれないけれど、それはいつの間にか、嬉しさに変わっていたのだ。

以前だったら、泣いている息子を見ておそらく私は、「慣れない幼稚園にいるのが嫌で寂しくて泣いているんだな」としか思わなかったかもしれない。けれど、話せるようになった今は、言葉を使って確かめることができる。今回の場合、喜怒哀楽で言うならば、「哀」ではなく「喜」だったのか、と私は誤解をせずに済んだのだ。
言葉が無かった頃には意味や理由を想像でしか感じ取ることが出来なかった。
言葉にできることで、こんなにも意思疎通ができるのかと思い、プリミティブな言語の偉大さや意義を感じたのだ。

一方で、言葉として表面に出て来たのは「自分のところに来てくれた嬉しさ」ですが、それを感じた彼の感情や心を言葉にしたら、もっともっと多い言葉が深層心理にあるようにも感じた。
こちらもまた想像の範疇を超えないけれど、友人が出迎えてくれた優しさや温かさに、胸が一杯で、涙が出る程嬉しかったこと、自分のことを覚えていてくれた喜び、顔馴染みの子たちと遊べる楽しみ、嬉し涙と言いつつも慣れない環境に飛び込む恐さ、ずっと一緒にいた親と一時的に離れる寂しさ、などなど。
それを思うと、言語化とは、「心や感じていること」を切り抜いて、瞬時にひとまとめにしているのに過ぎないのかもしれない、と思う。
言葉だけに注力するだけではなく、見落としそうな感情を掬い取ろうとする姿勢も、大切なのだと息子から教わったような気がする。

心が先で、言葉が後。
そんなフレーズがふと浮かぶ。
だとしたら、息子が少しずつ話せるようになった今、心が感じていることを一緒に掘り下げて紐解いていく。そんなふうにこれから息子と向き合っていく作業が必要なのかも、と。
母として、傾聴力を身に付けたいなと思う。



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