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自分が迎える、終わりの時

3月からはじめたこと。
葬儀屋のバイトを月に2.3日程度させていただけることになった。
日本においてスピリチュアルケアがどうなっているのだろうといつだか疑問が湧いたからだ。
それはもう一年半前のこと。
すこし時間が経ってしまったけど。
ふと思い立って、履歴書を書いた。
お香づくりをしていることを話したら興味を持っていただけて、すぐに採用していただき、働くことになった。

お香づくりってひとつのスピリチュアルケアになるのではないかと思っていたからだ。

人の一生は短い。
人の一生は長い。
よくわからないけれど、
肉体はこの場所に永遠にいることはできない。
お迎えが自然のこととしてやってくる。

その当たり前だけど
抜け落ちる何かを
見せていただいている。

ひとりの人が生きているということは
人の中で生存しているのだなあと。
家族がいて。
友がいる。
いくつもある接点を
面にしたり、広げたり、
あるいは、
手のひらに包むように
小さな輪を大切にする人生もあると思う、

親族の中に通じる何かを今日も感じながら。
ひとつの死は
特別な意味にも慣れば
すこし距離があるものもある。
死だから悲しいわけではない。
知っているから
共に味わった何かが私の中で生きているから
悲しいのだ。

終わりから考えることも、
自分がいつか死ぬことも
リアルに考えたことはなかった。

でも、その時間は確かにある。
葬儀屋で働かせてもらい、腑に落ちてわかったことだ。
カラッと終えていきたいと思う。
そして、
今、私が知っているだだけではない何かに出会っていたい。
そんな終わり方がいいと思う。
穏やかにいれたらいいな。

私は、変化したいのだなあ。
この文を書きながらそんなことを思う。
知ってることだけでは
やっぱりおもしろくない。

カラッと終えたいのなら
今カラッとすること。
わだかまりをがあるのなら
そのこと見つめて
修正していくこと。

終わりが私に教えてくれることは
今をどう生きるのか。
どう変化していくのか。
受け入れていくのか。
許していくのか。
ということなのかな。