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二年半ぶりに肉を食べることにした話




お肉を食べなくなって二年半。
私は今日、お肉を摂取するという選択をした。

 

 なんかちょっと嘘みたいで嫌だから先に書いておくと、相変わらず固形の肉は食べるつもりがない。ただ、骨を使ったスープを飲むことにした。これからも飲むかはわからない。多分飲まない。でも今はそういう風に決めた。そういう話だ。

 そもそも、タン塩や砂肝がめちゃくちゃ大好きだった私がなぜお肉を食べないようになったか。ペスコベジタリアンと呼ばれる、乳製品や魚は食べるけど肉は食べないタイプの人になったのか。その理由は主に三つある。

 環境のため、生き物のため、身体のため。それが主な理由だ。

「~のため」というと良いことみたいだけど、別にそうじゃない。それらのことを考えたときに、今の自分に肉は必要ないな~と思ったから。結局は、自分のためだ。

 牛のゲップに含まれるメタンガスが地球温暖化にめちゃくちゃ悪影響なのは有名な話だと思う。
 それに加えて、牛を育てるためには広い牧草地が必要だ。多くの人が肉を食べるようになればなるほど、新しい場所が必要になって、そのために森を壊して牧草地を作る。牛舎で育てるとしても、飼料を育てるために結局は広い土地が必要だ。そのために森を壊して畑を作る。
 牛の飲み水、そして牧草の成長のための水だっている。もちろんそれは牛だけじゃない、羊でも鶏でも豚でもおんなじ話だ。ニュージーランドに来てとても驚いたのは、本当に牧草地が多いこと。どこに行っても牛と羊がたくさんいる。牛可愛い~! 羊可愛い~~!! と思いながらも、今もたくさんのメタンガスがここから発生しているのか……と一人圧倒されたこともある。
 ニュージーランドの現政府は環境についてよく考えているので、牛を飼うことに対して規制をする動きもあるそうだ。なんにしろ家畜を育てることが環境破壊に繋がっているのは事実なので、環境のために肉を控えるということはわたしの中でかなり大きな理由になっている。


 私が今いるニュージーランドは、家畜の環境的にはいい方だと思う。日本だったら、ほとんどの牛は牛舎の中にいると思う。人間に食べられるためだけに生まれて、狭い場所でほとんど動くこともなくただ肥えて、そしてお肉になる。
 通っていた飯能山奥学校の側には乳牛の牛舎があった。時々彼らは外の小さなスペースで歩き回っていたけど、普段はずっと閉じ込められていた。牛乳を搾り取られるためだけに生まれて、絞られて、そしていつかは廃牛と呼ばれ殺される彼ら。食べられるためだけに生かされて殺される、しかも一生のほとんどを狭い部屋の中で……ということにわたしは恐怖を覚えてしまう。働いている人がどうこうではなく、そのシステムがただただ苦手なのだ。
 そしてそんな風にして大量に作られたお肉がスーパーにずらりと並んでいる。安くお肉が手に入るということは、低コストで大量に工場的な生産で作られているということだ。わたしはそういうお肉を直視することができない。食べたくない。それが二つ目の理由だ。

 そして最後に身体のため。わたしは日本人だ。日本人がこんなにもお肉を食べるようになったのは本当に最近の話で、それまで私たちは主にお魚と野菜をいっぱい食べてきた。外国の食文化が入ってくるようになってお肉が身近になったけど、何百年と受け継がれてきた日本人の身体にはお肉はそんなに合わないと思っている。
 まあでもお肉を食べなくなってから健康になったかというとそうでもないし、肉を食べないとオナラの匂いが臭くなくなるとか聞くけど別にそんなことはなく臭い時は臭い。
 正直この三つ目の身体のため、というのはそんなに大きな理由ではない。ただ、わたし日本人だしそんなにもともとお肉は必要ないんだよな~という気持ち。ただそれだけだ。


 そう、結局自分のためだ。自然が好きで、この星が好きで、自分のことを大切にしていて、だからそれを壊していくサイクルにはどうしても加担したくない。お肉を食べると、自分で自分が嫌になるから、食べなくなった。

 だからもちろん家族や友だちがお肉を食べていたって全然構わない。美味しそうだな~と思うだけ。ただ、わたしはそういう選択をしない。それだけだ。

 日本にいた時はよく友達の家で寝泊まりしていたけど、友だちが作ってくれた夜ご飯にお肉が入っていることだってよくある。わたしがお肉を食べないって知っていても、コンソメやゼラチンを使った料理を作ってくれることがある。そういう時、わたしは全く気にせずそれらの料理を食べる。流石に唐揚げとか固形のお肉は食べないけど、避けながらもエキスは気にせず受け入れることにしている。友達が作ってくれたご飯を美味しく食べることの方が幸せだし大切だからだ。
 そういえば去年ハマったお菓子はカラムーチョだった。裏側書いてあるチキンエキスに気がつくまでわたしは美味しいな~~と思ってバクバク食べていた。fracoco先輩に「このチキンエキスはいいの?」と言われて初めて気づき、かなり悲しくなったのを覚えている。
 そもそもやっぱり私はお肉の味が好きなのだ。だけど食べたくないと思ってしまう。そしてお肉が含まれていることに気付いてしまったら、もう自分では選びたくなくなる……厳格なベジタリアンにこんなこと言ったら嫌な思いされそうだし、普通にお肉が好きな人にも嫌な思いをされそうだ。でも、そういう私みたいな人もどっかにはいるんだと思う。


 肉好きが多いこの世の中では、ものすごく気をつけていない限りお肉はすぐに目の前にやってくる。
 カップ麺はほとんど肉か肉のエキス入りなのでなかなか食べられない。ケーキやゼリーもゼラチンを使っていたらもうダメだ。焚き火になるとマシュマロがどこからかやってくる。サラダを頼めばベーコンが散らしてある。
 そのくらい私たちの生活にとってお肉はとても身近な食べ物なのだ。いちいち確認していたらキリがない。外食のたびに聞くのは一緒にいる人にも申し訳ないし、お店の人にも面倒だし、だったら絶対食べても安全なベジタリアン向けの店に行くしかない。だけどベジタリアン向けの店はいまだに結構少ないし、高い。ちなみにわたしの一番好きなレストランはお肉ばっかりのサイゼリヤだ。フォカッチャが大好き!!

 そんな感じで、結局私は厳格なペスコベジタリアンではないから、まあちょっとくらいお肉が身体に入っちゃうのはしょうがないな~という気持ちで暮らしている。自分でお肉を食べる選択をすることはないけど、エキスとかがたまに身体に入っちゃうくらいのお肉との付き合い方でいいんじゃないかな、と思っている。

 一番大切なのは、美味しくご飯を食べることだからだ。


 そもそも乳製品も卵も食べるし、人より少ないとはいえ時々魚も食べるのでベジタリアンではない。わたしはただの肉を食べない人だ。誰かと食べるときはあまり気にしないけど、一人だったら絶対食べない。誰かといても、固形のお肉は食べない。そういう食生活をしている。
 (そういえばニュージーランドに来て、自由に生活している鶏や牛を見て改めて思ったことがあります。乳製品や卵を食べる時は放し飼いの良いやつを選びたいな、と思うようになりました。魚は地元で取れたやつだけ食べたいな、と……お財布に優しい食べ物じゃなくて、ストレスの少ない環境で生み出された人にも動物にも優しいものを食べたい、そう思うようになりました。)

 そんな食生活を続けて二年半。ニュージーランドに来て半年。
 パーマカルチャーを実践しつつ羊肉と狩りをこよなく愛するこの家で、肉を食べないわたしは居候をしている。農業を学びつつ、家畜を飼うということについても学び、肉を食べる生活について学んでいる。この家で肉はとても大切な食糧だからだ。
 この家のお兄ちゃん(高校生)は時々近くの山に狩りに行く。そして野生のヤギとか豚とかを取って帰ってくる。小さい獲物なら自分で捌けるから、気づいたときにはもうお肉の状態になってそこらへんに転がっている。この家では日常茶飯事だ。それから家族みんなで大切に動物(主に羊、時々七面鳥、稀に牛)を育てて、殺して、感謝して食べている。

 私は今まで、主に工場的な肉の生産システムがすごく嫌でお肉を食べてこなかった。大量に生き物を作り出して大量に生き物を消費していくそのシステムを、環境にも生き物にも良いとはいえないそのシステムを、ファストファッションが嫌なのと同じように嫌悪していた。

 だけど、自然のなかで暮らしている生き物を殺して食べることはどうなんだ? 
 自分たちが食べるために何年もかけて大切に育てた家畜たちを感謝して殺して食べる、それはどうなんだ? 
 自分はそれをよしとするのか、なしとするのか、どっちなんだ? 
 それは、日本の東京付近で生活していたときには考えなかったことだ。
 スーパーに並んだ大量生産の安いお肉ではなくて、オーガニックショップに売られている良い肉でもなくて、時々高級なお店に連れて行ってもらったときに出てくるめちゃくちゃに美味しいお肉でもなくて、ただ、そこらへんで生活していた野生の肉。それから、家族みんなで大切に育ててきた動物の肉。
 そしてわたしが嫌悪しているのは工場的考えであって、命を食べることが悪いと思っているわけではない。そうやって生きてきた生き物だし。
 今まで拒んできた肉とは違うそれを、それでも自分はそれを拒むのか、食べるのか……

 この家で居候している二か月間、私はいつも通り全くお肉を食べなかった。お肉が食卓に並ぶとき、この家のお母さんは私のために別の料理を作ってくれていた。ベジの人がいるときに肉を食べる場合、彼女はいつもベジの人のために別のご飯を作る。面倒じゃないの? と聞いたけど、どんな人も大抵長くて三週間くらいしか滞在しないのでそこまで問題はないらしい。(乳製品も食べないビーガンはは大変すぎるのでお断りしている。)そして私はもう二ヶ月ここにいて、あと数ヶ月ここにいる予定だ。私はとっくに歴代最長の居候になっている。わたしはここに夏の終わりにやってきて、今は秋で、そしてもうすぐ冬になる。

 「冬になるとね、私たちは毎日スープを飲むの。そしてそのスープを作るとき、私は動物の骨を長時間煮込んで出汁を取るの」彼女は言った。
 「それでね、ちょっと聞きたいんだけど、みゆきは動物の骨を使ったスープを飲む気はない?」と彼女は言った。もちろん普通はこんな提案はしないんだけどね、とも言った。

 彼女はどうして私が肉を食べないのかをちゃんと理解していた。彼女は昔、私と同じペスコベジタリアンだった。だけどパーマカルチャーをはじめて、家族を持って、肉を食べない生活のスタイルは厳しいという決断をして肉を食べるようになった人だった。私はそれを知っていたし、前に肉食についての話をしたときに私は言った。「私もいつか肉を食べるかもしれない。自分で大切に育てた動物だったら」

 彼女は言った。「私たちが食べる肉は山で狩った野生の肉、もしくは大切に育ててきた私たちの動物。もちろん肉を食べてとは言わないけど、骨を使ったスープはどう? もしよければ、食べてみない?」

 十日間の滞在のつもりでこの場所にやってきた私は、二ヶ月たった今もまだこの場所にいる。羊を牧草地から牧草地に移動させるやり方を何となく覚え、鶏たちがこの場所にどれだけ貢献しているかを知っている。家畜と一緒に生活し、この家族の生活方式を受け入れていて、彼らも私を受け入れてくれている。

 お肉だろうとなんだろうと、私は、ただ美味しくご飯を食べたい。
 わたしがお肉を食べないのは、お肉を食べると自分で自分が嫌になるからだ。でも、自分で自分が嫌になる理由がないお肉なら、この場所なら、わたしは何でもなくお肉を受け入れることができるのだ。
 もうすぐ冬になる。私のために毎日別のスープを作らせる手間はかけたくないし、骨を使ったスープだけを理由にこの場所を去ることはないくらいこの場所が大好きだ。一緒に仕事をして、美味しいご飯を食べて、暮らしたい。
 
 わたしはしばらく考えて、いいよ、と言った。いつもご飯を作ってくれてありがとう、わたしはあなたの作った骨スープを飲んでみます。と言った。
 私は、お肉を摂取することにした。
 骨を長時間煮込んで作られた美味しいスープを飲むことにした。

 人と出会うと自分は変わる。次に肉を食べる選択をするのは遠い先、自分で動物を育てることができた時だと思っていたけど、思っていたよりずっと早く来た。
 肉を摂取することに抵抗感ありまくりだったのに、すごく穏やかに受け入れることができて、むしろ食べれることを嬉しく思っている。
 もちろんいまだに固形の肉を食べようとは思わないけど。


 今日、骨を使ったスープを飲んだ。
 ちょっと不安そうな家族に見守られながらスープを飲み、その美味しさに感謝して、”Very nice, Thank you”とわたしは言った。

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