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「悲しい」という自然な反応

今この本がとても興味深いなと思って読んでいます。

試し読みした瞬間からこれだ!と思い、今噛み締めながら、また今までの自分の経緯を整理しながら読んでいます。

まだ序盤の方で読みかけなのですが、特にいいなと思ったのが、慢性的な悲哀は正常な反応、という部分です。

障害を持つ子の親は死を受け入れる過程と同じく、

①ショック
②否認
③悲しみと怒り
④適応
⑤再起

というルートを辿って我が子の障害を受け入れるわけなのですが、適応したからといって、悲しいと思ったり、どうしてと思うのは、正常な反応である、という点です。

これは当たり前のように感じますが、障害を持つ子の親はそれさえも許されない部分があるのです(実際に私も体験済み)。

悲しんでばかりいられないでしょうよと。何をしたらいいか考えましょうと。

もちろんそれはそうなのかもしれないのですが、毎日一生懸命頑張っている親に対してそれを当たり前のように言われては辛いのです。

悲しいときは悲しい。
嬉しい時は嬉しい。

シンプルにこれなのです。


ただこれを自然な反応として受け入れられるか、それが周りができるまず最初の支援なのだな、と感じています。

というのも私自身、ある程度子供の成長に関して「まぁいいか」と思えたものの、やはり通常発達している子たちの輪に入るのは勇気が入ります。

実際に通常発達している1個下の甥っ子に成長を抜かれる現実を見るのはなかなか心苦しい部分があります。

同い年の姪っ子は元気にぴょんぴょん飛び回り喋っていて、それを見ると自分の何がいけなかったんだろうと思います。

そしてその心苦しい気持ちで甥っ子たちに会ってもいいのか、気を遣われないかな?対等に扱ってもらえない?とそんな不安もあります。

でも本当はその心苦しい気持ちも、気まずい気持ちも正常な反応で、あっていいし、あるのが普通だということです。

わかっていたはずですが、本書で当然のように言われてハッとしました。

今まで頑張ってきたね、と言われた気分でした。


「障害がある子がこの社会にいるのは確かだけどなぜ我が子がこんな目に遭わなきゃいけないのだ。」

本書ではこのような言葉をほとんどの親が思い、口にするそうですが、やはりそれも正常な反応なのだと、改めてそれでいいんだと思うことができました。


本書でも書かれていて、以前から思っていたことでもあるのですが、私たちは無意識に自分は健常者であり、社会に必要とされ、生きていい存在なのだと思っています。

自分をそんな風に思えていない、という方もいらっしゃると思います。

でもそういう話ではなく、障害があるというのは、そもそも社会から必要とされない、無価値である、というレッテルを最初から貼られているような感覚があるということです。


もちろんだからと言って障害のある人のそういう気持ちと同じになれるか、というとそうではありません。

ですがそういう一面がある、そしていろんな人がいて、それぞれに苦しみがある、というのは知っていてもいいんじゃないかなと思っています。


というのも健常者である子どもの親が全くお気楽なのではない、というのも最近ようやく腑に落とすことができたらです。

それまでの私は

「いいな、通常発達している子は。」

と思っていました。

でも通常に発達すれば自由に歩き回るし、いたずらするし、結構うるさいし、元気すぎてついていけないし、と違う面で辛いと思える面があるのです。

これは姉の子育ての話を聞いて、内容は違うけど、同じように辛い、大変、疲れた、といったものを感じている、というのを感じることができました。


もちろんそうだからと言って、「じゃあ自分も頑張らなきゃ」と思う必要もなくて、まずは自分のそういう気持ちに気づくこと、そしてそれは苦しいけどそう思ってもいいのかもしれない、と認めていくことなんじゃないかと思います。

そしてその上でようやく周りが見えていて、

「そうか、色々な子がいて、色々な悩みがあるだけなんだ」

ということに気がつくのでは、と思っています。

だから頑張る必要はなくて、すでに頑張っている自分を労うのみ。


私もまだまだ羨む気持ちがありますし、どうして、と思うことがありますが、最近は「社会にいろんな人がいるんだから、家族の中にもいろんな人がいてもいいのかもな、いろんな人がいるのは大変かもしれないけど。」

と思っています。

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