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全ては私だった|悟りと呼ばれるものの理解と体験

本日、瞑想をしていたら、おそらくこれが世の中で言う「悟り」が分かったかのような体験をしました(数日後に分かりましたが、ちょい悟りといった感じです)。

一瞥体験(一時的に幸福感を感じたり、全てのものと一体化するといったこと)は今までもあったのですが、今回は一瞥体験後も、現実世界で意識が反転したかのような感覚になり、はじめてでした。

瞑想を終えても全てのものが一つのところから生まれており、自分と他との隔たりなどないということが理解でき、なんとも言えない平凡な、でも最も安心できる場所にたどり着いた気がしました。

食べ物ひとつにしても、化粧品ひとつにしても、みな同じところから生まれてきた、そうわかりました。


ここまで来るのに私は今まで文章を紡いだり、伝える技術を磨いたり、とにかく現実社会に適応することをしていました。特に情報判断のために使う視覚をフルに使っていました。

ですが2019年からは、精神世界に足を突っ込み、現実社会でもアウトプットに勤しみ、親子関係を改善したり、現代社会では評価されない審美眼を磨いたり、肉体を整えたり、と言ったことをしていました。


そして最近では他の対象を認識する時に「自分とつなげる架け橋」として見ようと思いました。いつも情報判断のために使っている五感(特に視覚)の使い方ではなく、ただ感じ取る、それを感じる時間を取っていました。


具体的には、日の光を感じたり、風のそよぎを感じたり、空気感を感じたりして、美しいと感じたり、ほっと安らぐ気持ちになったり、そのような活動をし、言うなれば心の眼を磨いていたら、今日の体験に行き着きました。

そしておそらく悟りというものを通過して思ったのは、「悟り」というのはただの言葉でしかないということ。そしてそれを通過したからといって日常が大きく変わるわけではないということです。


でもこれは意識の中ではとても大きな変化ではあります。ただこの悟りには終わりはなく、この悟りを通過したからといって、私が怒りや悲しみを感じなくなったわけでもないんだなというのもわかりました。


そして悟ったからといって、いつもこの完璧超人でいられるわけでもないというのもわかりました。もしかしたらいつかは無意識にでもそのような意識になるのかもしれませんが、情報判断のための視覚が優位になりやすい今の私は、意識的に生きることがコツだなと思っています(特に私には視覚以外に重きをおいて感じ取る時間をとることが有効的です。これをするとひとつであることが分かります)。


今まで本の情報などで「悟り」といったものを理解してきましたが、あの人たちが言っていた感覚、その一端はこれなのか、というのが分かりました。そして悟りとは特別なことのように思えますが、特別なことでもなく、ただそこにあったことに気がつかなかった、幸せは今この瞬間にあった、そのような感覚であることが分かりました。

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