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一生の師匠

2年前、1通の喪中はがきが届いた。
新卒で入社した会社の元上司、中尾さん(仮名)からのものだ。
その年、ご両親と愛犬を亡くされたとの内容に、
深い喪失感や悲しみの中にいるのだろうと想像すると胸が締め付けられた。
ふわっと頭に浮かんだ中尾さんの笑顔が、
肩を落とし涙を堪える姿にすり替わってしまう。

恥ずかしながら、
喪中はがきが届いた時の返事をどうすればよいのかわからず調べてみると、
寒中見舞いを送ることが一般的なようだった。
しかし、これは年が明けてからではないと送ることができない、
送付時期が決まっているもの。
メールを送るか、どうしようか……。
なるべく早く、せめてお悔やみの言葉だけでも届けたかった私はさらに調べた。
近年は喪中見舞いというものがあるらしい。
なんとなくメールを送ることは違うような気がして、
喪中見舞いのはがきを探してみることにした。

大きな文具店を訪れたものの、たった1種類のはがきしかない。
本当に歴史の浅いものなのだろう。
郵便局へ寄って弔辞用の切手も買ったが、
これを使っていいものかどうかは調べるほどに悩んでしまった。

文例を参考程度に読み、あくまでも自分の言葉で書こうとペンを執る。
もしお作法を間違えてしまったとしても、
出来の悪い部下と笑ってくれるだろうと、
中尾さんへの信頼と甘えは大きかった。


2005年の初夏、私は中尾さんに出会った。
採用試験を受けに行った会社で面接官の一人だった中尾さんに。
翌年の入社後、
「俺が伊藤を選んだ」と後日談として話してくれたこと、
ただの学生のひとりでしかなかった自分に何かを見出し肯定してもらえたようで、
とても嬉しかったことを覚えている。
それが例えば、
元気が良かったからとか、
笑顔が良かったからとか、
ありきたりなものであったとしても。

私がその会社を3年後に辞めてしまうまで、中尾さんには本当にお世話になった。
ゼロから仕事を教えてくれたことはもちろん、
社会人がなんたるかも全くわかっていない私に見切りをつけることなく、
根気強く見守ってくれた上、
何かあれば食事に連れ出しメンタルケアまでしてくれていた。
内心、私に対して呆れる場面は多々あったと思う。
今思い返せば、私が私に呆れてしまう場面が山ほどあるからだ。
あれからいくつかの会社に属し、
公私共にたくさんの人に出会ったけれど、
家族でも友人でもない誰かにあんなにもお世話になったのは、
これまでの人生でただひとり中尾さんだけだ。
”人生でいちばん迷惑をかけてしまった他人"と思う。
謙遜ではなく事実として、私は出来が悪かった。
期待外れの人材だったと思う。
その私を決して諦めず本気で育ててくれたことに、感謝しかない。
一生の師匠と思っている。


30代になってから、アウトプットについてよく考えるようになった。
20代は社会に育てられたと思う、インプットだらけの10年。
学び吸収し盗み、土台を築いていく時期。
20代進行中だった自分も、
20代を振り返る今の自分も、私自身はそうであったと思う。
アウトプットしてはたらくことの本番を迎えると思った、30代。
その折り返し地点に立つ今、私はまだアウトプットをできている自信がない。
同世代の友人たちがキャリアを築き役職者になったり、
はたまた独立をしていく間に、
私はいくつか職場も職種も変わり新人に舞い戻ったりしている。
自分では、選んできた道や積み重ねた経験を、かけがえのない財産と思っている。
けれど、いただくばかりで還元ができていないような気がするのだ。
労働という時間提供のみで、
誰かの何かの価値になるようなことができていないのではないだろうか。
中尾さんのように、はたらけてはいない、と。

仕事のあらゆる場面で、よく中尾さんのことを思い出す。
中尾さんが私に見せてくれていた姿は、アウトプットだらけだ。
クオリティ、プロ根性、決断力、コミュニケーション能力、フォロー……。
経験の先で自分もいつか手に入れることができるものと漠然と思っていたけれど、
経験を積めば手に入るものでもないらしいことだけはもうよくわかっている。


昨年、私は海外へ引っ越しをした。
毎年年賀状をくれていた中尾さんへ挨拶のメールを送ると、
新生活へのエールと共に、
喪中見舞いはがきが嬉しかったと一言添えてくれていた。
お作法に悩む必要はなかったのかもしれない。
いや、師匠に甘える私は、やっぱりまだまだインプットしかできていない。
中尾さんのアウトプットにはずっと敵わないのだろう。



#はたらくってなんだろう

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