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お姉ちゃんなんだから症候群

 子どもの頃,2歳下の弟のことがうらやましくて仕方なかった。

弟は,彼自身の欲求にとても素直だった。


宿題が嫌だったらそのプリントを破って,なかったことにするし,

お菓子が食べたいと思ったら,母が戸棚の奥とかに隠していたポテトチップスを,恐るべき嗅覚で探し出してくる。

「食べる?」とニヤニヤしながら,私を共犯にしようとするのだ。

まぁ,もちろん食べたけど。


そんな感じだったので,弟はいつも母に怒られていた。

私は,そんな弟を見ていたので,母を怒らせないように,困らせないようにと,怒られそうなことはとにかく避けていた。

わざわざ怒られることをするなんて,弟はバカだなぁ…と思っていた。

けど,本当はうらやましかったのだ。


怒られたくなくて,褒められたくて,通信簿の数字の世界が私の全てだった。

宿題をしていれば,怒られない。
いい点をとれば,怒られない。
作文を書き,絵を書き,賞をとれば褒められる。

私の本当の欲求は何だったんだろうか?
本当にしたいことは何だったんだろうか?


記憶は,「お姉ちゃんなんだから,我慢しなさい」にさかのぼる。

お姉ちゃんは,最後の唐揚げを弟に譲るのが当たり前。
本当は食べたかったけど。

お姉ちゃんは,弟が見たいアニメを見るのが当たり前。
音楽番組見たかったな。

お姉ちゃんは,親戚の集まりに笑顔でいること。
弟はそういうの苦手だから。

お姉ちゃんは,我慢することを覚えていく。
本当はどう思っていたかなんて覚えていない。

「お姉ちゃんなんだから」に対抗できる言葉を知らなかった。

だって,実際,お姉ちゃんだし。


「本当はこうしたいけど」,どうしても他人に譲ってしまうのは,
体に染み付いた「お姉ちゃんなんだから」に従って動いている。

かと言って「本当はこうしたいけど」の方をやると,罪悪感が残る。
「お姉ちゃんなのに」我慢せずにやってしまった,と。

体が自然に譲る。
そして,心が置いていかれる。
別に求めていた訳ではないのだが,どうしても「私が我慢して,譲ってあげた」という気持ちが出てくる。それで,感謝とかされれば,その気持ちは無事に成仏してくれる。
でも,そういうのがない時には,「うらやましさ」がしっかり残る。

もう大人なのに。
目の前に弟がいるわけじゃないし,「お姉ちゃん」ではないのだ。

だから,相手の人だって,まさか私が「お姉ちゃんなんだから症候群」にかかっていて,「私が本当は我慢しているけど,譲られた」とは思わないのだ。

私が譲りたいと心から思って,譲っていると思っているのだ。

「お姉ちゃんなんだから症候群」は,職場でお土産のお菓子を分け与えられる時など,些細なことでも出現する。同じように,「お姉ちゃんなんだから症候群」にかかっている者の存在を明らかにすることも可能となる。
「私余り物でいいので,皆さん先に選んでください」が口癖である可能性が高いと思われる。


さて,私は私の人生を生きるために「自分が本当にしたいことは何か?」を取り戻す決意をしたのだ。

我慢していることを少しずつ手放すことが,私の感情を取り戻すために必要な作業なのだ。

ようやく,生きづらいと言えるようになって,気づいたときには「自分が何を感じるべきか」さえ,自分でコントロールしていたのだ。
感情さえも,自然に感じるものではなくなっていた。
呼吸するのと同じくらい,自然に我慢してしまうものだから,我慢しているのかどうかさえ,最初は気づかなかったのだ。
そうして,気づいた時には,我慢が抑えきれなくなっていて,大爆発という流れが見えてきたのだ。

つまり,我慢していることを少しずつ手放していくことの方が,大爆発していろんなものを一気に失うよりも,はるかにコストがかからないのだ。

しかも,自分を生きられてる感をが得られるという,大変豪華なおまけ付きだ。

我慢して,譲らなかったことに,罪悪感など感じている場合ではないのだ。





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