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大河ドラマ「どうする家康」第17回雑感 ~物事は段取り9分~

元亀2年、武田軍は遠江徳川領に侵攻。
信玄生涯最後の戦い、いわゆる西上作戦である。

この作戦の武田信玄の意図は何であったか?
三河遠江の攻略か?、信長を討って上洛か?

諸説あるが、信玄の慎重な性格からすると、まずは、小生意気な家康を葬り、三河遠江の足場を固めると考えていたのでは?と思う。
まあ、「三カ年の鬱憤」を晴らすであるが、あまり徳川、織田どちらを攻略目標に置いていたかはどうでも良いのかもしれない。

徳川相手とは言え、作戦立案には織田軍本隊の援軍を考慮しないといけない、織田徳川両家の連動をケアする必要があるからである。

浜松城で籠城戦になった場合、織田軍との戦いの前に必要以上の兵力の損耗を招くと同時に織田軍に戦の準備の時間を与えてしまう。
信濃からの連絡路天竜川筋の要衝二俣城を抑えたとは言え、兵站の問題もあろう。

そこで信玄は徳川軍を短期決戦、野戦に持ち込むよう策を打つ。
浜松城をスルーする迂回戦術である。

迂回とは敵の待ち構えている箇所での戦闘を避け、他の目標へ前進すること
敵を有利な地形や場所から引き離し、こちらの選んだ場所での決戦を強要させる。

そして、この策の裏ミッションとしては、援軍として来襲する織田軍本隊、信長を討ち取ることもあったのかもしれない。

仮に家康が誘いに乗らず野戦にならなくても、信長本隊を誘い出せれば決戦、信長が来なければ三河を取って織田徳川の分断ができよう。
そうなれば袋の鼠の浜松は無理に力攻めしなくとも、早晩自滅する。

一方、絶体絶命の徳川としては少なくとも信長本隊が来るまでは城に籠もり、何が何でも動かず辛抱しなければならない。
そうすれば、武田軍を織田、徳川両軍で挟撃の目も出てくるのだが…

しかし、家康はまんまと信玄の策にはまってしまった。

ドラマ的には、松潤家康は、愛する築山殿、信康がいる岡崎を見捨てられないということだろうか…若さ故の過ちというものであったろう。

勝者はまず勝ちて、しかる後に戦いを求め、敗者はまず戦いて、しかる後に勝ちを求む。わっぱよ……戦は勝ってから、始めるものじゃ

孫子の兵法
「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め」
「敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」

正に信玄の言う通りだが、もっと大きな目で見ると、そもそも信玄は西上作戦にあたり、戦いの前に実に入念な準備をし「勝ち」を求めている。

上杉に対しては一向一揆勢力の協力を仰ぎ武装蜂起をぶつけ、北条に対しては甲相同盟を結んでいる。
また、朝倉にも織田領への侵攻を要請している。
もちろん、遠江の国衆、住民への工作も進んでいたであろう。

もしも、この段階で岡崎城にまで調略の手が伸びていたとしたら…。

そこまではさすがの信玄も出来なかったが、つくづく戦いとは下準備、段取り9分であると思う。

浜松を素通りする武田軍
古今、こうした迂回戦術は、数多くの戦いで実行されたが、成功例がほとんどないらしい

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