がんばれば夢は叶う、と夢が叶った人間はメディアに出てきていうが、それはがんばったからではない。叶ったからだ。
私のまわりには、小説家になりたいんです、という若者が途切れずにずっといる。職場のアルバイトが多い。男も女もいた。作品を持ってきて読ませてくれた人もいたし、いっているだけで、最後まで読ませてくれなかったひともいた。
読ませてくれたひとには、何らかのコメントを伝えた。
ロックバンドをやっている男がいた。ライブに誘われたので、出かけていった。中央線沿線にあるライブハウスだった。いわゆる対バンライブで、客は、ほとんど出演しているバンドの友人、知人のようだった。そのバンドの演奏が終わると、一部の客がごそっと帰っていく。だからわかる。最初は混んでいたライブハウスも終わりのほうになると、すかすかになる。
一抹の哀愁がただよう。
そのようなライブを続けて、有名になったロックバンドもいることだろう。もちろん、ブレイクしなかったロックバンドも大勢いると思う。
未来は誰もわからない。
夢について考える。
小説家志望のアルバイトで、いまのところ、作家デビューしたという話は聞かない。ロックバンドの男も、当時は頻繁にライブをしていたが、年を取ったし、いまはしていないようだ。
「アナログガール」という中・短編集に収録した、「だって二十九といったら就職する年齢としては、ぎりぎりでしょう?」という小説で、夢について、私は、こう書いた。
がんばれば夢は叶う、と夢が叶った人間はメディアに出てきていうが、それはがんばったからではない。叶ったからだ。叶った人間しかメディアには出られないからだ。
そして、こう続く。
テレビで流れるCMのナレーションで、夢のある未来などというが、夢を持つということは自分の心のなかにモンスターを飼育するようなものだということを知っているのだろうか。
私の真摯な思いである。
以下の作品は、そのアナログガール」に収録された、「だって二十九といったら就職する年齢としては、ぎりぎりでしょう?」という短編である。
このまえがきだけを読むと、そのようには思えないかもしれないが、ミステリ小説である。
*
しばらく自分の顔を見ていないなと私はふと思った。鏡をのぞいたことがないという意味ではない。まいにち髭を剃っているし、顔も洗っている。歯も磨いている。そのたびに鏡のなかをのぞいて見ているはずだった。だが、見たことがないな、と私は思ったのだった。本当に。
私は自分の顔が思い出せなかった。
いったいなぜなのだろう。いつからなのだろう。ヤマヒサのことが唐突に思い浮かんだ。あまりに意外だったので、狼狽してしまった。だいたいヤマヒサは私の顔の喪失とはなんの関係もない。私の会社のアルバイトだった。先日、仕事が終ってからヤマヒサに誘われて、飲みにいった。安価な居酒屋だ。こんなことは滅多にない。なんなんだろうと思っていたら女の相談だった。ビールを八本飲みながら、三時間、話を聞いた。カシワに女がいます。ギャル系の女ですが、最近関係がぎくしゃくしているのです、と太いため息をつきながらいった。
ヤマヒサは二十九歳で、大学を卒業後、就職はせず、バイトを転々としていた。就職をする気はまったくないようだった。ロック・ミュージシャンだったからだ。プロではないが。高校時代からバンドを組んで、自分たちのオリジナル曲を演奏していた。ヤマヒサはベースを弾いていた。ライブハウスで、精力的に多くのライブをこなしていたが(ワンマンではなく、バンドが複数合同でやる、いわゆる対バン形式のライブだ)、集客数は思ったようにのびていないようだった。チケットを知り合いに売ってきてもらう。客もお金も仲間うちで、ぐるぐるとまわっている。ほかのバンドの客もくるので、開場したばかりのライブハウスは盛況を呈しているが、バンドの演奏が終るごとに去っていき、最後のほうのバンドは一握りの客しかのこっていない。そんなライブだ。
ヤマヒサのバンド名はプライム・ストリート・バンドといい(なんのことはない。青梅街道を単純に英語に直しただけだ)、メンバーは特異な容貌の人間ばかりだった。ボーカルは自衛隊を辞めたという男で、髪をアフロにしていた。かれが書く詞は下品な下ネタの内容が多かった。ドラムは痩せぎすのスキンヘッドの男だった。パワーあるドラムを叩き出す。ギターはぼうっとした平凡なサラリーマンふうの背の高い男で、だめ人間を自称していた。理由を尋ねると、連続で五人の女に振られたからだという。なあんだ。大したことないと私は思った。五人どころか、合計で三十人以上の女に振られてきた男を知っている。また、女にコクることすらできない、シャイで弱気な男たちもたくさん知っている。
ヤマヒサは中肉中背の男で、縁がディープブルーのめがねをかけていた。ファッションにも気をつかう男で、かれのつくるメロディーはフレンチテイストで、グルーヴィーで、おしゃれだった。そんな楽曲に下ネタの歌詞がのる。売れるかどうかは微妙だったが、私はそれなりに楽しめた。
私がヤマヒサと親しくなったきっかけは電気グルーヴだった。昼休み、私が廊下で、電気グルーヴの「N.O」を口ずさんでいたら「それ電気の『N.O』っすよね。好きなんですか」と尋ねてきたのだ。
電気グルーヴが好きだ。テクノとかパンクが好きだというと、おれもですよといって満面の笑みですぐにどんなアーティストか好きなのかという音楽談義が始まり、アルバムのタイトルや曲名が飛び交って、三十分後にはバンドをやっているということを打ち明けられたのだった。
ミステリを書いている、と私はカミングアウトしていた。小説を書いているのは事実だったが、ミステリではない。小説のなかで、ミステリらしい事件は起こる。だが、犯人は捕まらない。なぜ犯人が捕まらないのか? 私見によれば、現実では解決がつかない、暫定的な解決しかないことのほうが多いと思うからだ。それは現実が投影されているのだ。そういうミステリはもはやミステリとはいわないのかもしれないが(むしろ不条理小説とかそういうのだろうか?)、ぴったりのジャンルがない。それで、ミステリといっていた。そのほうが周囲の人間に受け入れられやすかったからだ。いちいち説明する手間もはぶける。そういうミステリがあってもいいと思っていたということもある。まったくのでたらめではない。
ただ、そういう世界観に基づくミステリは受け入れられなかった。七年ものあいだ、アルバイト生活をしながら雑誌の新人賞に投稿していたが、どれひとつとして当選しなかった。けっきょくあきらめ、私はこの会社に就職した。いまほど日本経済が破綻していなかった時代だ。私は金銭的には困らなくなったが、それだけのことだ。がんばれば夢は叶う、と夢が叶った人間はメディアに出てきていうが、それはがんばったからではない。叶ったからだ。叶った人間しかメディアには出られないからだ。テレビで流れるCMのナレーションで、夢のある未来などというが、夢を持つということは自分の心のなかにモンスターを飼育するようなものだということを知っているのだろうか。
こちら岸が見えなくなって、幽霊船のようにさまよって二十年になる友人をたくさん知っている。いまさらせわしくオールを漕いでもこちらの岸辺に戻ってくることはできない。
自分の夢にきっぱりと見切りをつけることも大事なことなのだ。
その日、私がライブハウスにいったのはたんなる偶然だった。
ライブの裏側がどうなっているのか一度見ておきたかったので、ヤマヒサにプライム・ストリート・バンドのリハーサルの見学を申し出たのだ。とくに問題はないとヤマヒサはいった。リハーサルはお昼の二時からだと聞いていたので休暇を取り、その時間をめざしていった。
中央線沿線のライブハウスだったが、誰にでも貸し出しする店で、駅まえの商店街からはずれたさびれた場所にあった。
入口は白っぽく薄汚れた感じで、階段を地下一階までおりていくと、ドアがあった。あけて入ると狭い空間だった。座席は100席ない感じだった。ステージが見えた。何回か観たことがあるバンドのメンバーがステージ上に集まっていたが、なんだか騒がしくいいあらそっているようだった。
近寄っていくと、中心になって大声を張りあげているのはヤマヒサだった。
「ベースが盗まれた。さっきまでそこにあったのに、ちょっと目を離したすきにやられた」
ヤマヒサが怒鳴っていた。
「どういうことだよ」
アフロが首をひねりながらいった。
「だからなくなったんだ、ベースが」
「ちゃんと捜してみたのかよ」
「もちろんだ。盗まれたとしか考えようがない」
「いまの時間、ここにはおれたちしかいないんだぜ。そんなことはあり得ない」
「でも実際になくなった。ついさっきまでそこに置いてあったのにいまはない。それは事実だ」
「だとすれば、部外者が入ってきて、こっそりと持ち去ったということだって考えられるぞ。たとえばいまだってここに知らない男がいるじゃないか」
スキンヘッドが咎めるような目つきで私を指さした。
「おまえのことだ」
このひとはバイト先の上司だ。きょうは見学にきているだけだ。ミステリ小説を書いている作家だとヤマヒサが説明すると、メンバーは微妙な表情をしたが、いちおう誤解は解けたようだった。ミステリ作家と呼ばれることには抵抗があったが、話がややこしくなりそうだったので、そういうことにしておいた。
「ミステリ小説っていうのは名探偵とかが出てくるやつか」
アフロが興味深そうに尋ねた。説明するのが面倒くさかったので、私はそうだといった。
「じゃ、犯人を見つけ出してくれ。名探偵なのだろう?」
私は一瞬ことばにつまったが、太いため息をついてからいった。
「小説の登場人物が名探偵だからといって、作者が名探偵であるわけではない。ホームズは名探偵だが、コナン・ドイルは名探偵じゃない。そういうことだ」
「作者と名探偵がおなじ名前のミステリがあったじゃないか。あれはどうなんだ」
スキンヘッドがいった。エラリー・クィーンのことをいっているようだが、それもおなじことだ。そのような趣向で小説を書いているだけだ。作者が名探偵であるわけではない。それよりもスキンヘッドが実際に本格ミステリ小説を読んでいるという事実に私は大いに驚いていた。本格ミステリファンなのだろうか?
私はライブハウスの客席とステージをぐるりと見まわした。店の人間はいないようだった。
「わかりました。やってみましょう。事実のあらましを要約します。ベースはついさっきまでここにあった。でも、いまはない。いつの間にかなくなっていた。それでいいですね」
「ああ。そのとおりだ」
ヤマヒサではなく、アフロがうなずいた。
何が始まったのかと、バンドのメンバーは不審そうな顔つきをしている。
私は自分の小説のなかでさえ、書いたことがないせりふをいった。
「犯人はこの四人のメンバーのなかにいます!」
おお、本格ミステリの探偵っぽいと私は思った。
「じっちゃんの名にかけて」と思わずいいそうになって、名探偵の祖父がいないことに気がついて、あわてて口をおしとどめた。
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