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次の百年では一人くらい読む人がいるかもしれないのだから。その一人のために図書館はある

 近年しばしば見かけるのが、公立図書館の入口にあるリサイクル本である。図書館のキャパには限界がある。ので、除籍する。もったいないので、市民に配布しよう。有効利用になるし、SDGsの時代だ。
 趣旨はよくわかる。問題は本の中身である。全集ものがわりとリサイクルされているのだ。全集ものは利用がない。だから選ばれるのだろう。おそらく。
 私が実際に目にした例でいえば、高村光太郎全集の一部がリサイクル本のコーナーにあった。高村光太郎は誰でも知っている。「レモン哀歌」は国語の教科書に載っている。普通のひとは新潮文庫の「智恵子抄」があればだいたい足りるだろう。あるいは「高村光太郎詩集」が。全集に入っている評論やエッセイ、書簡などはまあ関係ない。関係があるのは、高村光太郎を研究する一部の学者だけだ。
 利用がない。だから除籍しよう。それはわかるが、個人では買わない、でも図書館に行けばある。そういう本を所蔵しているのが、図書館ではないだろうか。
 もっと言ってしまえば、図書館の存在意義ではないだろうか。
 利用がない本はどんどん除籍しよう。それでは図書館の蔵書はやせ細っていくばかりだ。
 現在、利用がたくさんある本だって十年後にはどうなっているかわからない。芥川賞や直木賞受賞作だって、数十年前に出た本は絶版になっている時代なのだ。
 図書館なら、100年間、誰も読まなかった本を所蔵していてもいいではないか。次の百年では一人くらい読む人がいるかもしれないのだから。その一人のために図書館はある。と言ってしまっては大げさだが、図書館にはそれくらいの気概がほしい。
 売れない本は出したくない。出版社はそうかもしれないが、図書館は利潤を追求しているわけではないのだから、利用がない本はいらないではあんまりだという気がする。
 と、この記事は、これで終わればかっこいいのだが、実のところ、私は、リサイクル本の恩恵をかなり受けているのである。先日も欲しくて古本屋を捜していたが、ぜんぜん見つかれなかった本を偶然、リサイクルで見つけた。タダである。私は本は読めればいいタイプなので、装丁の汚れや痛みは気にならない。狂喜したと同時に、これはどういうことなのだ、と運命の不思議ないたずらに複雑な気持にもなった。
 ちなみにその本というのは後藤明生「蜂アカデミーへの報告」である。分かる人はわかる名作だと思う。

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