そんなことを考えてみたりすると、救われる自分もいたりする

気が向いたときに更新しようとすると平気で一週間経ってしまう。結局ひとは楽な方に流れていくものだから、更新するよりもしない方が楽な以上、更新頻度はどんどん減っていくわけで。

アウトプットは、インプットよりもめんどくさい。何かを作るにはエネルギーがいるけど、創作物から娯楽を享受するのにエネルギーはほとんどいらない。マンガを読んで、アニメを観て、音楽を聴いて、そんなふうにだらりと過ごすのは正直やる気がなくてもできてしまう。それに比べて、こんな取り留めのない文章ですら、生み出すには最低限のエネルギーが必要になる。

仕事にせよ、日々の暮らしにせよ、何かとエネルギーを消費しないと明日にすらたどり着けない僕らは、何かを創作するためのエネルギーを残すだけの余裕なんてない。だからなんの強制力もないnoteの更新なんて、続くわけもない。

ではなぜ、今わたしはnoteを更新しているのか。

最近noteの更新をたまにしていることを、リアルの友人らに報告しているわけでもなく、Twitterに書いた記事を共有しているわけでもない。noteのフォロワーも多いわけでもない。おそらく誰もわたしを見張ってはいない。更新のための動機付けは皆無に等しい。

ならば書きたいほどの出来事でもあったのか。

いや、そんなこともない。

最近といえばマガポケとジャンプラの更新を追いながら職場と自宅を往復するだけの日々。

この記事のオチも用意していなければ、とっておきの一言もない。つまらない人間だと言われても、否定できるだけの手札がない。

それでもこの、ツイートでは収まりきらないような量の文字の羅列をつらつらと入力しているうちに、不思議と落ち着く感情がある。消耗するエネルギーと引き換えに、湧いてくる別のエネルギーがある。もしかしたら、読んでくれているわたしとはなんのつながりのないどこかの誰かもいるかもしれない。そんなことを考えてみたりすると、救われる自分もいたりする。

ものすごく疲れているときにごくまれに文章を書きたくなることがあるけど、そんなようなことを考えて、文章を紡いでいたりする。


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