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蝶々の住処

「秘密、守れる?絶対、絶対に秘密よ」
薄紅色の形の良い唇をした美しい少女は細く艶のある髪に指を通し背中に流した。


私が通っている学校の教室のスピーカーの横にはセミヌード神様が磔にされている。
朝は主の祈りから始まり、学校の敷地内にシスターが寝起きする修道院とチャペルがあり、年に数回ミサが行われる以外は至って普通の女子高だ。
中学で盛りのついた猿のように男子の目線を気にしてひっきりなしに前髪を櫛で整え、色つきリップを塗っていた子達はここでは少数派となり、比較的マイペースで自分の世界を持った所謂オタク系やガリ勉タイプの生徒が多く、私には過ごしやすい。
髪を染めるのもピアスも化粧も禁止。スカート丈は膝下五センチ厳守。靴は黒か茶のローファー。靴下は白の三つ折りソックス。カーディガンとセーターも校章の入った指定のものしか認められていない。
校則は私立にしてはまぁまぁ厳しい方だけど不満は無い。中には反発してスカートを切ったり、先生の目を盗んでウエストをベルトで締めて巧妙にたくし上げ、スカート丈を短くする子もいるけれど、私は制服を着崩すのってだらしなく見えるし何よりダサいと思っている。
白いブラウスにリボンタイ。紺のジャンパースカートにブレザー。うちの制服はクラシカルだけど、正しく身につければ清楚で結構かわいいと思う。
カトリックの女子高というとお嬢様学校というイメージが付きまとうけれど、うちの学校はわりと庶民派でお嬢様の方が少数派だ。
牧歌的で自由な校風に惹かれ、少々無理をしたり、様々な公的制度を利用して入ったという中流家庭の子女が大半だ。しかし、中には本物のお嬢様というのが存在する。小百合様はその筆頭だ。
三代続く医者の家系で両親共にお医者様、少し歳の離れた兄と姉も医大生なのだという小百合様は我々と頭の出来からして違うらしく成績がずば抜けて良く、噂によると全教科学年一位らしい。
小百合様ならもっとレベルの高い高校でも余裕で入れただろうにどうしてうちのような中の下の女子高に入ったのか不思議でならないけれど、噂によると「家から近かったから」という理由らしい。頭の良い人の考えることはよく分からない。
しかし、この女の園で小百合様が小百合様と呼ばれている理由は家柄や成績の良さだけでは無い。
目の上で真っ直ぐに切り揃えた前髪。切れ長で幅広のアーモンド型の瞳。マスカラをしているわけでもないのにお人形のように綺麗にカールした長いまつ毛。肌目の細かい真っ白な肌はそばかすはひとつない。腰まである豊かな髪は烏の濡れ羽色だ。背はすらりと高く、手脚も一際長く、一人だけ別次元に美しいのだ。
小百合様は特定のグループには属しておらず、いつも一人で行動しているけれど、決して孤立しているというわけではなかった。誰もが小百合様を一目置き、お近付きになりたがっており、秘かに崇拝して隠し撮りをしたり「好きです。私とお付き合いしてくだい」と告白をして「ごめんなさい。私は誰ともお付き合いする気はないのよ」と優雅に嫋やかにお断りされ、玉砕した生徒の数は星の数だ。
小百合様は必要最低限しか口を利かない。
いつも聖母マリアのようなアルカイックスマイルを浮かべ、授業で教師に当てられた時以外は沈黙を守り、一人静かに読書をしている。
教室の喧騒をものともせず、休み時間に使い込まれた革のカバーがかけられた文庫本のページを捲る姿はあまりにも絵になり過ぎていて神秘的ですらあった。
そんな高嶺の花である小百合様と自他ともに認める没個性な小市民代表である私が、図書委員の当番で畏れ多くも小百合様とペアになったことをきっかけに会話をするようになったのは高二の春の出来事だった。人生、何があるか分からないものである。
「性別に関係なく、恋愛感情と友情がきちんと分離していない年頃というのはあるのよ」
小百合様は私には理解できないような分厚いハードカバーの西洋の古い哲学書をよみながら時々そのようなことを言った。
「時々真剣な方がいるのでそういう場合は真摯に個別に対応させて頂いてるけど、多くは男性がいない環境で手っ取り早い疑似恋愛の対象として私を選んだに過ぎないのよ。ほんと茶番だわ」
小百合様は淡々とした口調でそう言うと、細く艶のある髪に指を通し背中に流した。
図書委員の仕事の傍ら、私達は色々な話をした。始めは小百合様のような聡明で美しいお方と何を話せばいいのか分からなかったけれど、話してみると小百合様は意外にも気さくで何とも感じの良い普通の女の子だった。
「私、友達いないから恵ちゃんと話せて嬉しい」
そう言ってはにかんだように微笑む姿も美しかった。
私と小百合様が話すのは委員会活動中、図書室に人がいない時間帯だけで、廊下で擦れ違うことがあっても私は気恥ずかしくて目も合わせられなかった。
それが少し寂しいと小百合様に打ち明けられた時、それが暗黙の了解だとばかり思っていた私は心底驚いた。
「恵ちゃん、どうしていつも無視するの?」
形の良い唇を尖らせ、上目遣いに私を睨む小百合様を前に私は大いに動揺した。
そんなことを言われても、図書室で人懐こく微笑む小百合様と、廊下で腰まである黒髪を優雅に揺らしながら姿勢よく歩く小百合様が同一人物だと私の脳はどうしても認識することが出来ないのだ。
「あ、小百合さん、後で委員会でね!」
とはならない。
何故なら相手はあの、小百合様だからだ。
「だ、だって、私なんかと気安く小百合様が話したら」
「様付けはやめてって言った。私なんかって言うのもやめて」
「……私と小百合、さん、が話してたらみんな変だと思うよ」
「みんなって誰?そんなのどうだって良くない?」
話し合いの結果、半ば押し切られるような形で私達は廊下で擦れ違う時にほんの一瞬、小指を絡ませ合うことにした。
小百合様の指はいつもひんやりと冷たくて、その感触は妙に生々しかった。
図書室の中のカウンターの中で話す小百合様と校内で見かける小百合様はまるで別人のようで、私はそのギャップに大層苦しめられた。
二人きりの時、小百合様はよく笑い、よく喋った。
小百合様はいつも軽く小首を傾げるように手を口元に添えながら話した。笑う声まで涼やかで鈴を転がすようだった。
その姿が何とも品が良く、お育ちが良い方というのは日常のふとした仕草からして違うのだと惚れ惚れした。ある時、私が冗談めかしてそう言うと小百合様は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「……恵ちゃん」
「なぁに?」
「秘密、守れる?」
「え、何どうしたの急に」
「絶対、絶対に秘密よ」
神妙な顔で何度も何度も念を押され、怖いもの見たさに怖々頷くと、小百合様は悪戯っぽく笑い、大きく口を開けて舌を出した。
十七年間生きて来てこれほど驚いたことはない。きっとこれからも無いだろう。
ぬらぬらと艶かしい淡い桃色の舌の中央には青い蝶々のピアスが鎮座していた。
「……モルフォチョウ」
呆気に取られながらやっとのことで私がそう呟くと、小百合様は「そう、流石恵ちゃん。綺麗でしょう?」と誇らしげに微笑んだ。
「すごく、綺麗」
光沢のある不思議な色合いの蝶はまるで生まれた時からそこにいたみたいにしっくりと馴染んでいた。
しかし、清楚で真面目な優等生の小百合様と舌ピアスがどうしても結び付かず「どうして耳じゃなくて舌にあけようって思ったの?」と尋ねると、小百合様は事も無げに「だって耳にあけたらすぐにバレて怒られるでしょう?」と優雅に肩を竦めた。
「恵ちゃんだから見せたのよ。二人だけの秘密ね」
口の中に蝶を飼う美しい少女はそう言って口元に手を添えると妖しく笑った。

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