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ショートストーリー「アイスキャンディーはもう買わない」

本当は、遠い田舎にでも行って、雑草に挟まれた太い道の真ん中に両手足を大の字に広げて、仰向けになりたい。からっと晴れた日に、Tシャツと短パンで。じりじりと焼けるように熱い、1本道のど真ん中に。
でも私は、もう大人。そんなことが許されないこと知ってる。やってる人がいたら、たぶん私も若干引くし。
だから、部屋の中で仰向けになる。縁側なんてない、ただのマンションの一室だけど、申し訳程度にベランダはある。そこに出るための窓は、天井からフローリングまで続いている、そこそこ大きい、普通の窓。
ガラスに頭頂部をくっつけて、両手足を大の字に広げて寝転がれば、そこそこの空が見える。疲れた時とか、ちょっと落ち込んだ時、こうやって空を見る。
普通に外に出て、首を曲げて見上げるより、ほんの少し自由な気がする。
今は、星も見えない、曇った夜だけど、それでも。

同僚のマキちゃんは、とても優しい。私の仕事は、銀行の窓口勤務。仕事はルーティーンで、難しいことはそんなにない。ただ、番号を読み上げて、用件を聞いて、手続きを済ませるだけ。誰がやってもできるような簡単な仕事なのに、最近の私は、ミスばかりだ。そのカバーは全て、マキちゃんがしてくれて、お客さんのクレーム対応までしてくれた。
「今は仕方ないよ。ゆっくり、前のあんたに戻ればいいよ」って。
「もう、前の私には戻れないよ。戻りたくないよ」
そう言ったら、少し悲しそうな顔をされた。それが、一番落ち込んだ。

週明け、マキちゃんにごめんって言おう。頑張るよって言おう。そしたら笑ってくれるかな。
そんなことを考えていたら、両足の裏の自由が奪われた。弧を描くように視線を足元へ移すと、私の足の裏よりひと回り大きい足の裏が、私の足の裏を隠すように、ぴっとりと添えられていた。
「なにしてるの?」
「ん〜。愛情表現?」
私が冷凍庫に必ず常備している棒付きのアイスキャンディーを食べながら、Tシャツに短パン姿の彼が言う。
そうじゃなくて。こんな夜更けに、なんでここにいるの?って思ったんだけど、そういえば彼は家の鍵を持っていたし、おかしいことはなんにもないんだ。そう思い直して、「ふぅん。ありがとう」と言った。
彼の足は、いつも冷たい。きっと、いつもアイスキャンディーを食べているから。

お盆に入った。
銀行はお盆休みがない。でも私は、周りの強い勧めで、有給を取り休むことになった。休んでもすることもないのだけど、出勤してもマキちゃんの仕事を増やしてしまうだけだから、大人しく休むことにした。
一昨年の夏は、彼と海に行った。浮き輪が壊れていて、空気を入れても入れても膨らまなくて、結局浅瀬でしか遊べなかったけど、とても楽しかった。
その前の夏は、山に行った。キャンプはハードルが高いから、日帰りハイキング。それでも蚊がたくさんいて、大変だった。
私は山より海がすきってことはわかったけど、今年はどっちも行かない。家で彼とゆっくりできるなら、それがいい。

「暑いからって家の中にずっといたらダメだよ。外に行きなよ」
いつものように空を見ていたら、いつものように彼がきた。私の足の裏に、自分の足の裏を、ぴっとりと合わせて。
彼のアドバイスは、ごもっともで的外れ。私は暑いから外に出ないんじゃない。家の中の方が自由だから。でも、ずっと家の中にいたらいけないのはその通りで、そろそろ冷蔵庫が空っぽになる。
あなたが一緒に行ってくれたら、行く。前にそう言ったら、泣きそうな顔をされたから、もう言わない。
「そうだね。私もアイスキャンディーを買いに行こうかな」
「もっと栄養のあるものを食べなよ。おにぎりとか」
こんな暑いのに、おにぎりはないだろう。
「じゃあ、行かない」
あーあ。また困った顔をさせてしまった。見たくないから、そっと空に視線を戻す。今は、うっとおしいくらいの青空。

うたた寝をしていたらしい。夏の陽は長いけれど、油断していると徐々に影が長くなり、いつの間にか空は赤く染まる。そろそろ起きようか。
さっきから、遠くの方で携帯の着信音がなっている。玄関に置きっぱなしにしている、仕事用の鞄の中だと思う。
長いから、たぶん電話。
6回目だから、たぶんマキちゃん。
出なかったら、7回目がなるんだろうな。
「もしもし」
「かき氷、食べに行かない?今流行りのふわっふわの、空気みたいなやつじゃないよ。ガリガリした、頭キーンってなるやつね」
「行かない。かき氷って栄養ないじゃない」
「何言ってんの。心の栄養よ。とにかく、1時間後に迎えに行くから」
勝手に決めないで欲しい。せっかく彼とゆっくりしているのに。
「よかった。楽しんでおいでよ」
彼が嬉しそうに笑ってる。アイスキャンディーは栄養がないのに、かき氷はいいんだ。
なんかずるい。
みんなずるい。
いつもずるい。

きっちり1時間後、マキちゃんがきてしまった。彼は行ってしまった。
「やっほ。先に挨拶させて」
マキちゃん。彼はいま、外出中。
「そろそろ1年経つね」
結婚記念日は、3年前の秋だよ。
「元気出せとは言わない。でも今のあんたに、かき氷は必須だから」
アイスキャンディーでいいよ。
「さ。いくよ」
諦めるしかなさそう。

かき氷は、図書館の向かいにある、お好み焼き屋さんで食べるのだという。油染みが複雑な模様のように見える木のテーブルに、背もたれのない椅子。若い子が好きそうなお洒落なカフェとは程遠いけど、おばあちゃんの家みたいな、どこか安心する感じのお店だった。
マキちゃんは、学生時代からの常連らしい。午前中で終わる日はお好み焼きを、夏休みの部活の後はかき氷を、その都度違う友達と。なんて健康的な青春だろう。
店主と親しげに挨拶をして、マキちゃんは私のことを『友達』って紹介した。『同僚』じゃなくって、『友達』。足の裏が少しあたたかくなった。
器からはみ出るほどに削られたかき氷は、ひと口食べると本当に頭がキーンってした。マキちゃんは宇治抹茶デラックスで、抹茶ソースと練乳と、あんこと白玉と、さくらんぼが乗っている。かなりボリューミー。でも、赤が入ると可愛くて、似合っていた。
私はレモンミルク。レモンシロップとたっぷりの練乳に、レモンの薄切りが添えられていた。本当はただのレモンでよかったのに、マキちゃんがミルクを追加した。でも、練乳の甘味は、氷の冷たさに溶け込んで柔らかかった。レモンの薄切りも、蜂蜜の甘さが優しかった。
マキちゃんの口は、かき氷と支店長の悪口を、交互に出し入れしていた。支店長はみんなに嫌われている。何が、と言葉にするのは難しいけれど、なんとなく、みんな嫌い。だから、何をしても何をしなくても、みんなに悪口を言われる。今回は、給湯室にある冷蔵庫に、賞味期限の切れたエクレアが入れっぱなしになっている件について。
「食べるなら食べる、食べないなら捨てなよって思うわけ。こっちが勝手に捨てるわけにもいかないし。って言うか、こっちが捨ててあげるのもおかしい話じゃない?」
確かに、食べ物を捨てる瞬間は、少し罪悪感を抱く。私が食べれば捨てられなかったのに、私が食べなかったせいで、この食べ物はゴミになってしまった。もっと言えば、私が買わなければ、他の誰かが買って食べてくれたのに、私が買ってしまったから、食べてもらえなかった。そんなふうに、少し自分を嫌いになる。
支店長のために、そんな思いをするのは私も遠慮したい。
「しかもさ、エクレア。エクレアだよ?何そのおしゃれ感。お前はシュークリームだろって感じ」
エクレアを買っただけで叩かれる支店長。もう、宿命だから仕方ない。
「シュークリームでも、皮がパリパリのじゃなくて、ふにゃっとしてる方が似合ってるよね」
「それ!ほんとそれ!」
マキちゃんが嬉しそうに笑う。少し舌が緑色で、それがおかしくて、私も笑った。

家まで送ると言ってくれたマキちゃんと店の前で別れ、のろのろと夜道を歩く。地面は少しデコボコしていて、日中に集めた熱をまだ溜め込んでいた。サンダルの中で、足の裏がじんわりと熱を帯びていくのがわかる。
かき氷の冷たさは、もうとっくに私の中に溶け込んで、あたたかい栄養となっていた。
嫌な気分じゃなかった。

帰宅して、シャワーを浴びると、裸足のまま、いつものように空を見る。星が見えた。
今日はもう、彼に会えない。
なんとなくわかる。
私の足の裏が、今日は少しあたたかいから。
見ないようにしている祭壇には、ぐにゃりとひしゃげた鍵が置いてあるから。
彼はこの部屋に入ってこれない。

この部屋にあふれている、彼との思い出は優しい。私から彼を奪うこともなく、この部屋は自由だ。
だから私は、どんどん沈んでいきたい。
だけど彼は、私を簡単に沈ませてはくれない。マキちゃんも。

会えないことを、彼は喜ぶだろう。でも私は悲しい。
でも、彼が喜ぶのなら、これでいいのかもしれない。きっとマキちゃんも、喜んでくれる。

明日は、おにぎりを買いに行こう。


おしまい

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