内なる自分と言葉の制約

*1-発端:現実によくある雑談

 先日、友人がニューヨークへ旅立った。
 パートナーの転勤についていったのだ。高校時代からの付き合いで、もう十七,八年の付き合いになる。気軽に合える距離に、長い付き合いの友人がいた喜びを改めて噛み締め、一方で、新天地に向かう友人を心から応援した。

 話は、その経緯(イキサツ)を聞く時のこと、先月のことだ。
 パートナーの突然の転勤を聞き、実家との折り合いの話になる。有り体に言えば、喧嘩になってしまったらしい。その際、友人は母親へ、激昂させるワードを踏んでしまったらしく、話合いにならないような喧嘩になってしまったらしいのだ。
 それについては、後日解決したことを先に記すのだが、その時に友人がその母親から言われた言葉で、私は深く考えを掘り下げた。
「アンタも、思ってること全部いっちまいな!」
 との言葉。これについて、「"思ってること"とは何だ……?」と。

 ご覧の通り、多少血気盛んな女性ゆえの、売り言葉買い言葉。おそらく、その場の感情や、普段押し留めるような細かいこと等々を全てぶちまけて、ぶつかりあうことを標榜する意味だとは推察できる。しかし、その観点から"日常の人間を理解する為の、一つの鍵が落ちている"と思い、私は拾い上げてみたい。


*2-本題:自分を示す部分。
 この時に私が想起したのは『内なる声と自分の違い』の話だった。
 人は多く、内なる声を持っていると思う。それは感情とは別の物だが、感情と切り離せないものとも言える。自分の内側に沸き起こった心理を認識したり、言語化している存在、自我だ。
 この自我と、自分とは違う。これを、普段見失いがちだと思うのだ。
 好きなもの、嫌いなもの。身体的な不快や、目先の快楽。自我は多くのものを認識し、捉えているものの、それは=として自分かと言われると、そうではない。
 友人母も、特別に嫌いなものに対して、拒絶反応が出た。それは、私たちが痛みに対してイテェ!と叫んだのと大差はない。その言い方、仕草、そして結果としてどうするかが自我の先にある、自分となる。
 これは、相手もそうだし、自分もそうだ。
 このエピソードで友人母のキレた姿で、読者には困った母親である像を抱かせたかと思う。しかし、彼女は学のある方で、後々非常に後悔され和解された話も記す。
 だからこそ余計に、自我と自分のコントロールが難しい、と言う話である。


*3-結論:人間の中身について/実際の好例
 二つ、この拾い上げた鍵がどこに繋がっているか示したい。
 一つは人間の中身について。
 感情や自我と言った言葉を当てたが、これらは全て、人類が共有し名前を付けたから認識ができている概念である。「思っていること全部」と言った際、名前が付いたものしか、我々は口にできないのだ。だからこそ、"自分"と言う選択が重要となる。

 その一例として、もう一つの扉、現実の結果をお伝えしたい。
 最後に、友人のパートナーの対応だ。
 「アンタも、思ってること全部いっちまいな!」
 「……? 私はあまり、感情が波立つことがないのです。ただ、大事なこととして、私たち家族が、そして私たちの両親、義母義父が幸せに暮らすことを一番に思っており、それに向かって何ができるかを考えたいと思っています。」
 と返答したらしい。(友人からのつてつての言葉なので、意味訳)
 これを見るだけで、この友人のパートナーが非常にできた人であり、信頼のおける方なのが見受けられるのですが、この前段の友人母の言葉と、友人パートナーの言葉を比べた所で、私が拾い上げた鍵『自分の存在の仕方』が明確になるのではないか、と思う。
 
 友人らのニューヨークの門出に、幸あれ。 

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