最愛の奥様になら、いつだって頑張ってと言われたい。
*1/3-序
2000年初頭かな、鬱病が世の中に認知されてきて、注目されだした頃のこと。仲の良い同級生で鬱状態になってしまった子がいて、調べたことがありました。
その接し方の中に『頑張れ』と言うのは追い打ちになる為に適切ではないとあり、しばらく軽率に『頑張れ』と言えない時期がありました。
この配慮は大事で、大人になった今こそ役に立つ細やかな心遣いだと感じています。じゃあ、この『配慮』って何なのか?
それがこの記事になります。言葉の配慮は、一言でいえば『相手がどう受け止めるかを発言者が考えること』です。そして、『配慮はいったいどこまでやれば十分なのか』これが最終的に難しい所になると思います。言ってしまえば、『顔をしっかり見て話すこと』が答えなのですが、この説明では不十分です。
なぜならまさしく、この説明では『私が貴方の顔を見れていないから』です。
*2/3-配慮の例
実際、『頑張れ』って言葉自体は、悪くないですよね。
確かに悪い例を思えば、鬱状態の人に『頑張って』と声を掛けることや、毒親が「頑張りなさい!」と子どもに言っている空気感とか、どうやってもいたたまれない情景です。
けれども、そうでない状況。良い例を思えば、リングで戦うボクサーに掛ける声援や、駅伝で走る選手へ道端から声を掛けること、はたまた運動会で応援合戦になること。或いは題名のように、頑張りたいと思って奮闘している時期に、最愛の妻から「頑張ってね、行ってらっしゃい」と、朝言ってもらって家を出るのは、大きな力になる言葉です。
この違いって、文脈があることです。
毒親が子どもに言う『頑張れ』は、毒親自身が望んでいる結果を子どもに求めているだけであり、『貴方の都合はどうでもいいから、言われたことをやりなさい』と言っているだけです。……いやぁ、言語化すると酷い内容が浮き彫りになりますね。
だから、それと他の『頑張れ』が同じな訳ないんですよね。
ボクサーも駅伝選手も当然頑張っているので、観客の「頑張れ」と言う声援は、『勝って欲しい!』とか『実力を発揮してほしい』と言う想いが真意であり、文脈の意味ですよね。スポーツ選手としては、やっぱりそう言った観客の想いは力になります。
また、奥様の「頑張ってね、行ってらっしゃい」には『貴方の頑張りを見ているからね、頑張りで良い成果が得られるといいね』と言う純粋な応援の気持ちが真意です。
このように、『頑張れ』と言う言葉一つで、多くの意味を持っています。もちろん、状況や人との環境によって、その真意、『』の中身は少しずつ違います。”言葉には文脈がある”って、そういうことですよね。
もちろん、それが十分に伝えられない関係性や時間の問題があります。それが配慮の部分。それは、言葉は受け取る人がどう理解するかでようやく完結するからです。
もしかしたらですが、毒親の『頑張れ』を素直に応援と捕えて、素晴らしい成果を生み出す子どももいるでしょうし、身体の不調を感じているスポーツ選手が心無い声援と感じて心を病むこともあるでしょう。
夫婦の間だって、意思疎通が日々うまくいってなければ「頑張ってね、いってらっしゃい」に繋がる言葉が変わってきます。それを、相手がどう受け止めるかを発言者が考えること、それがこの記事で示す配慮です。
この言葉の真意となる『』の中身をそのまま伝えれば良いじゃないかと思いますが、それが出来るならそうする方が良いことは確かです。ただ、うまく言語化することそのものが難しいことは言っておきましょう。そして、毎回そこに時間を割いていたら時間が足りないし、文脈とは適切に伝える最小の言葉なので、『頑張れ』が最適な時も往々にしてあります。
じゃあ、どこまで配慮をするのが良いのか。その指針がこの記事のポイントですね。
*3/3-結
今朝、奥様から声援を貰って珈琲を飲んでいる最中、Twitterで以下の呟きを見ました。
>「某コー◯ーCMの「どんな時でも前を向こう」って言葉は、私みたいな奴には苦痛でしかないんだが。下向いてても横向いてても後ろ向いててもいいやん。世界広くて四方八方に広がってるのに、なぜ前ばっかり向かなあかんねんなー」
ありますよね。良い言葉なのに、広告で使われると途端に空々しい言葉。またそれを苦手にする人も多いと思います。私のフォロワーさんだし、私も広告よりフォロワーさんの言葉に共感します。
>「世界は縦横無尽に広がっている」
良い言葉だなー。
もちろん、「どんな時でも前を向こう」と言う言葉だって、けして悪い意味ではないです。前を向いて歩いた方が安全だし、なのに、なぜダメなのか。
これはフォロワーさんにとって無神経な言葉なんですよね。
「なぜ前ばっかり向かなあかんねんなー」に集約されるように『この人から言われたくない』と言う意味が先に立っている。
★『この人から言われたくない』
これがポイントです。
なので私は*1/3-序の最後で、
>『顔をしっかり見て話すこと』が答えなのですが、この説明では不十分です。
>なぜならまさしく、この説明では『私が貴方の顔を見れていないから』です。
とお伝えするしかありませんでした。"顔のない誰か"に向けて私がこの記事を書いたとして、やはり掛ける言葉は無いんですよね。そこには、私が声を掛けるべき関係性がありません。なので実は、この記事は呟きのフォロワーさんに"いやー無遠慮な広告文章を朝から見てしまい災難でしたなーガハハ"と慰める言葉を適切に真意を伝える記事であり、また、そういった言葉の扱いに悩んでいる人に向かって書いた記事でした。
「言葉は、誰がいつ、誰に対して言ったかが意味となる」
と言うこと。改めて、これこそが文脈です。言葉を言う側はもちろん、受ける側も文脈の一部なのです。そして、声を掛ける前に相手との関係性を踏まえること。これが配慮です。
――と、言う訳で、ここまで読んで頂いた貴方と筆者である私の間に、わずかながら『関係性』が生まれたのですね。
声を掛けると言うのは、それだけ"真っすぐと顔を見ること"なのです。それ以外の言葉は見ていないってことなんですよ。わりと無視して大丈夫です。最愛の人になら、いつだって頑張ってと言われたいものですから。
*この記事で貴方の心を応援できたのなら幸いです。よろしければ、読者様からも適切な返答を頂ければ嬉しい限り。↓のはーとを押しちゃったりとか……。
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