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腹鳴恐怖症だった私と吃音症の娘NO.45 好きになれなかった父

私が、10歳の時に、母親が亡くなった事は前にもお話しましたが、それと同時に、父親とは、なかなか、馴染めなかった私でした......

この話は少し長くなりそうですが、読んでいただけたら、嬉しいです^ ^

私は、たまたま、母が亡くなった時が、思春期だったということが、大きかったのだと思います。自分が勝手に思っているだけなのですが、きょうだい4人の中で1番、母親っ子だったと思います......
たまたま、腹鳴恐怖症になったのも、思春期だった時に、お腹の音にとらわれてしまい、そうなっていったと、ふじわら先生に教えていただきました。

前にも話したことと、かぶりますが、私が小さい頃は、私の家は養鶏場を、やっていました。
同級生のお母さんが、〇〇〇さんちの、卵は美味しいからって、買いに来てた時代です。

じいちゃんは、学校の先生だったようですが、私達の子供の頃には、既に定年しており、どこかへ遊びに行って、数日帰ってこない事は、ザラだったようで、ばあちゃんも、その点では、色々と苦労したようです。

私は、あまりそのあたりは覚えてなくて、大人になり、だいぶ経ってから、姉から聞いたので、驚いたくらいです。

そんなこんなで、どうして、こうなったのかは、定かではありませんが、私の子供の頃は、あまり、裕福とは言えない状況でした。

母親が亡くなってから、学校から帰ると家の手伝いで、鶏舎に行き、卵とりを、毎日していました。
どちらかと言えば、させられたと思っていましたが......

その後、私は愛知県に出て、働きながら高校へも行ったのですが......
今の、平成、令和という時代の子供達には、分からない話かもしれません。私も気がつけば、50歳になりました。
何となく、既に、昭和が懐かしいと思える、時代の流れを感じます。

50歳と40歳では、何もかも、全く違いますね、戻れるものなら、戻りたいと思っても、戻れませんが。

私は、小さい頃、なかなか喋らない、喋りたくない子供だったので、父親とも、母が亡くなるまで、ほとんど話した記憶がありませんでした。

本当に父のことは、好きになれなくて、でも、母が亡くなってからは、喋らないといけなくなり、少しづつは話すようにはなりましたが。

父は、着る物も、食べる物も、何でもいいという人でした。
ある意味、自己肯定感が高い?
存在価値で生きていた?と、色々分かってから、そう思ったのですが。

私は、そんな父のことが好きになれず、一緒に出かけて、「これ買って!」 と言っても、絶対に買ってもらえませんでした。
それからというもの、一度も、 「これ買って!」 とは、言うことはありませんでした。

何かにつけ、やりたいことがあったとしても、「それは、せんでいい」 「あれも、せんでいい
」としか、言われることはありませんでした。

褒めてもらおうと、頑張って勉強した事もありましたが、1番上の姉が、頭が良すぎて、私には到底、注目してくれることはなかったということは言うまでもありません。 
それと同時に、どんどん、ひねくれた考えになっていきました。

私は結局、数年間県外に出ていましたが、地元に戻ってきました。まだ、父親も元気な頃、相変わらず、私たちにも、マイナスな事しか言わないところは変わらず。

私が子供を産み母親となった頃も、色々と、マイナスなことばかり言う父親を、好きにはなれませんでした。お金も、パチンコにほとんど使ってしまう、お金は持つと、使ってしまう性分みたいで、とにかくお金がないということが、ほとんどでした。

それから、私の子供達も、今現在、上2人は就職して県外に出て頑張っていますが、私の父も、それと同時に、歳を重ね、今は82歳、数年前に、パーキンソン病と、診断され、片手しか、震えてなかったのが、今では両手、震えるようになりました。

私は、今年の3月に、何度もこの、noteにも登場させてもらっている、ふじわら先生との出逢いがあるまでは、自分の過去も受け容れることができてなかったのですが、と言うことは、もちろん、父親のことも全く受け容れることができませんでした。

本当に正直に言うと、嫌いで、イライラすることも多々ありました。

しかし、今では、自分の過去と和解し、受け容れることができ、腹鳴恐怖症も、腹鳴恐怖症だったと、過去形にもなりました。

確かに、父も、歳を重ね、自分にも不自由さを感じながら、1人で生活し、病院へは、私はもう、数年前に、1番上の姉と交代したのですが、月に数回、姉が連れて行ってくれています。

昨日、違う病院に行き、足のリハビリの為、デイケアに行くことにしたから、手続きしてきたと、うちに寄ったのですが、父を数ヶ月ぶりに見て、ずいぶん歳をとったなって思いました。

前みたいに、父のことを、嫌いだとか、家がどうだとか、本当に、どうでも良い話になった、私は本当に過去を受け容れることができたんだと思いました。

この歳まで、父のことを受け容れることができなかったと、思うと、ずいぶん時間がかかってしまったと思いましたが、父が全部、記憶が、飛ぶほどの痴呆症になる前で良かったなと思います。

こんなことばかり言うと、相当仲が悪いのかと思われるかもしれませんが、嫌なところもありながら、私の子供が産まれてから、温泉は年に一度か二度、子供の誕生日にはいつも、呼んで、お誕生日会もやっていました。
父もそうですが、うちの家族は、ほとんど、飲める人ばかりなので、つい、飲み会になってしまいます.....

息子達が、中学生頃から、部活の関係で、自然と呼ばなくなりましたが、年に数回は実家へも行きます。
コロナ前までは、それなりに親孝行はしてきたつもりで、あくまで、つもりなので、単なる自己満足ですが。

今は本当の意味で、父に感謝とまではいきませんが、もし、明日、さよならすることがあったとしても、その時は恨みというよりも、感謝に変わると思います。

おそらく、自分自身が、過去を受け容れることが出来たことにより、父のことも受け容れることができたのだと思います。

父も、だんだん歳老いていく、私も同じように、誰しも歳を重ねていく、その中で、私は、何ができるのか、自分にも悔いはありません。


父のために、私にもできることを、少しでも、やっていきたいと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました^ ^

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