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「失われた30年」の正体 #3

  1. 日本の停滞とデジタル
    (3)日本経済の停滞の原因
      ①停滞の起点
       ⅰ バブル崩壊

 日本経済の停滞はいつ始まったか。
 この点については、多くの識者の意見は一致する。
 客観的な数字を辿っても同じ答えになる。
 GDP、賃金の伸びが止まり始め諸外国の潮流から取り残されたのが、今から30年以上遡る1989~90年である。
 起点はバブル崩壊である。
 世間ではバブルの風が吹き株価、地価は上昇していた。
 一般庶民から見れば、地価の高騰により住宅の取得が難しくなるなど、むしろ負の側面が大きかった。
 この為、地価の抑制などを目的とする政策が発動された事をきっかけにバブルは崩壊し、実際の価値や需要を度外視して高騰していた株価、地価は暴落し多くは不良債権となり、この解消に長い時間が費やされた。
 私は90年代半ば頃、10年住んだ2DKのマンションが手狭になり一戸建てに住み替えようとしていた。
 新しい物件を探すのと並行して、売却を進めていたが当時、100万単位で値を下げても売れず綱渡で住み替えた経験をしている。
 自分の勤め先については当時はそれほど心配していなかったし業績が落ち込む事もなかったが、
信用を越えた追い貸しなどで不良債権を抱えた金融機関は多額の公的資金を投入しながら破綻が相次ぎ、以後は一転して貸し渋りが横行し一般企業の救済や景気の回復を妨げた。
 また公的資金の投入以後、財政への負担は大きく、現在まで解消されずさらに拡大している。
 1996年からの橋本改革は、バブル崩壊からの回復過程で生じた公的資金の投入による財政破綻の回避に向けて打たれた対策であった。
 行財政改革と金融ビッグバンとともに、赤字国債発行を抑制し消費増税に手を付けた。
 結果、アジア通貨危機とも重なり景気は後退し後に長期デフレ継続の原因と主張する識者もいた。
 最終的に不良債権の処理に終止符が打たれたのは2000年を跨いた小泉政権下であると言われている。
 好不況の循環は資本主義につきものであり、グローバルな観点からはどこの国でも起こり得る通常のサイクルに過ぎない。
 ただバブル崩壊は日本単独で発生した現象で、発生した不良債権の処理だけでも10年を要し、さらに「失われた30年」に繋がる巨大な影響力を持った。
      ⅱ バブルまで
 バブルに至るまでの日本は産業的な基盤が確立し、世界的な市場も冷戦下で固定している中、長期雇用での労働者の熟練や企業構造の安定という日本の利点を活かしその中で品質を向上させながら、コスト削減などの合理化も追求し競争力が向上してきた。
 生産年齢人口も増え消費者が豊かになるにつれ、供給に応える国内需要もまた成長するという好循環が達成されてきた。
 一方でアメリカは、流動的、短期的な労働市場でそれぞれ独立した企業の間で、日本のように技術の蓄積が行われず生産性・品質の停滞が生じていた。
 品質が向上しアメリカに比較して賃金コストも低いため低価格の日本からの輸出は急増しアメリカ企業の収益は悪化し失業率も高くなった。
 日本では製造業を中心に生産性や品質改善のための投資は活発に行われ工場設備の改善は進んでいった。
 さらに先端産業の育成と言う点でも、政府が主導して半導体産業を立ち上げ先行投資がなされ次の飛躍のステージを準備していった。
 私は1970年代に社会人となったが、日本は成長の過程にあり、毎年ベースアップがあり、当然のように定年まで勤めるものと思っていた。
 年功序列の賃金体系である日本の会社においては若い間はそれ程給与は高く無くても、子育てや住宅取得が必要な年代にはそれなりの給与水準に達しているものと思っていた。
 アメリカは急増する貿易赤字、国内の失業率の増加などから日本に対する政治的圧力を強めていった。
 次世代の産業を牽引すると目された半導体の輸入を制限するため日米半導体協定を結び、円安による日本からの輸出増加を制限するべくプラザ合意によって円高に向け日本を輸出主導から国内需要に向けるよう誘導した。
 日米構造協議で貿易不均衡を崩すべく日本の経済構造自体を否定し「改善」する事が求められ、日本は「前川レポート」で答えた。
 私の勤めていた会社は、アメリカのスーパー301条により、国内流通の寡占を指摘された業界の系列企業であった。
 勤務先が情報システム部門だったため、アメリカ商務省だったかの役人が乗り込み電算室で何か調べていた。
 その間、社員である我々は中に入る事は許されずただガラス越しに眺めていた。
 積極的な財政金融政策により、内需の刺激を図ったが現実の国内需要の拡大よりも資金供給が先行して、いわゆる金余り状態となった。
 容易な資金調達により甘い投資を招き世間にバブルの風を吹かして株価、地価の異常な上昇に繋がった。

      ⅲ バブル崩壊で逃したもの
 バブル崩壊と並行して、世界経済に大きな変革の時期が来ていた。IT革命である。
 バブルに目を奪われて見えないうちに大きな環境の変化が訪れていたが、日本にとって気がついた時はすでに遅かった。
 冷戦が終了し世界市場は広がりグローバル化の時代を迎えるとともにIT革命の波が押し寄せ日本は呑み込まれるだけで、その波には乗れなかった。
 それまで日本にとって有利に働いていた全てが陳腐化し逆風となっていた。
 輸出がそれまで伸びてきた理由に、品質や魅力的な製品開発などの技術力もあった事は事実だが、それ以前に欧米に比べて賃金が低く従って価格競争力が高い事が大きな要因であった。
 その長所は、韓国、中国をはじめ当時の後にいた国々が技術力をつけた時には失われる事は予想できていた。
 冷戦終了によって中国やロシアをはじめ多くの国がグローバル市場に参入し世界経済は一変していた。
 日本を追いかけていた国々が、かって日本が成功したレールを同じ低価格という武器を持って追いかけ追いつき、すでに賃金が上昇し低価格を武器に出来なくなった日本を追い越していった。 
 一方、アメリカはIT革命の波に乗り製造業からソフトウェア・IT産業へと脱皮していた。
 日本はどちらの土俵にも乗れず置き去りにされた。
 結論として言い換えるならば、それまで追われる立場だったアメリカは、グローバル化と情報通信の革命を足場に新たな戦略をとった。
 バブル崩壊にはアメリカの政治的圧力を感じざるを得ないがきっかけに過ぎず、目を奪われている時には、大きな分岐点にさしかかっておりその背後にはより大きなアメリカの長期的戦略が存在していた。
 アメリカは製造業については生産工程の標準化のもとグローバルな水平分業という形で、賃金の安い途上国に任せ、一定の品質を保ちながらコストの削減を図った。
 一方で設計や、ソフトウェア開発など途上国ではまだ到達できない技術分野を開拓し新たな市場を開くことで次々と新しい技術を持った企業が現れ産業の新陳代謝が進んだ。
 製造業にこだわらず、国策としてソフトウェアという新しい領域を切り開き、パソコンやインターネット、スマートフォンそしてAIへと主役を入れ替えながら発展を続けている。
 製造業でも生産方式の標準化を図り、世界中での生産を可能とし、世界中から調達をはじめ急速に費用対効果が向上、インターフェースを標準化する事で多様な組み合わせも可能となった。
 そのため需要の変化に対して、新たな製品開発を部品の組み合わせという熟練技を必要としない方法で実現していった。
 一方、日本では得意とした長期雇用や系列企業群による技術の蓄積や安定した品質管理の体制はむしろ柔軟に戦略を変える足かせとなった。
 長年積み重ねた職人わざのノウハウは、ソフトウェアや機器に代替され陳腐化した。
 消費者の嗜好は多様化し、従来の製造モデルを簡単には変えられない日本型の経営は柔軟に対応する事ができず、かつ工程の合理化にも限界があり、価格で競争する事しかできなくなった。
 このため利益が増えず、賃金も抑制されていく事になる。
 モノづくりの限界を感じながらも、ソフトウェアを中心とする新しい産業が生まれ発展する事はなかった。
 こういった弱点はバブルの間は見えなくなっていたが、バブル崩壊とともに一気に顕在化した。
 日本では長期雇用の慣行や企業系列内の関係を重視したため、雇用の崩壊は短期的には起こらなかった、しかし希望退職や新規雇用の抑制により、企業内失業や若年層の非正規化といういびつな現象が進行した。
 私が勤め先の業績に不安を感じはじめたのはちょうど2000年を越える頃だったと思う。
 情報システム部門が皮肉にも脚光を浴びたのは西暦2000年問題で、21世紀になると従来のコンピュータシステムの暦年認識が予期しない誤動作を起こす可能性があるという事で正月から出勤したのを覚えている。
 順調だった勤務先の会社もデジタル化の波に押され構造不況の中で統廃合を繰り返し、ある日珍しく上司から酒の誘いを受けた。
 リストラを正式に告げられる前の一種の儀式だった。
 地方の工場の総務部門で、現地のリストラ担当に転身する道もあると言われたが退社を選んだ。
 50を過ぎた頃、若い頃、給与カーブの頂点の年代かと想定していたあたりで転職を余儀なくされ年収はそれまでの6割程度に落ち込んだ。
 転職先が見つかっただけましな方だったかもしれない。
 また、当時大学を卒業する年代の若い人たちには過酷な就職氷河期が待っていた。
 全体をならしてみると工場部門での人員は生産工程の技術進化により減少する一方、流通部門や一般事務部門は人が余る状況となった。
 格差は広がったが米国に比べマイルドな形で進行したが、生産性は低下した。

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