健やかであるということ


ここ最近、自分を大事にするってなんだろう、と考える時間が増えました。
大事にしてもらう時間が増えたからかもしれません。
健康を害しているからかもしれません、どちらもかな。
今日は自分を大事にすることを健やかさから考えてみます。


体が健やかであるということ

まずは体が健やかであるということから。
というより私が健やかでない、という話になりますが。

私はいま一応、適応障害の診断がおりています。
主には不眠症状(入眠できないのではなく中途覚醒)です。
眠れないと疲れも取れず全体的に体が重くて、食べる量も減り、4月の健康診断から4〜5kgほど体重が落ちました。

それから子宮頸部の異形成もあと2ヶ月したら再検査が必要です。
性感染症もウレアプラズマに感染していて5月から抗生剤で治療していますが未だ治らずです。
3年前に親知らずは全撤去したはずなのになんだか奥歯も痛むし、全体的に体が健やかでないのは明らかです。

でも今どき治らない病気や怪我なんてほとんどないし、ダラダラと治療していればそのうち治るし、大切な誰かのことならともかく自分の体ならどうでもいいかと思っていました。


心が健やかであるということ

つぎに心が健やかであるということ。
体を健やかにするにはそもそも、当の本人がそうなりたいと思わないと始まりません。お金もかかるし、時間もかかるし、検査は恥ずかしくて痛いし薬は副作用もあって決して作業なんかではないからです。

私ができるだけ速やかに健やかになりたい、と思ったのは特に自分を大事にしてくれる人がいるからでした。
ひとりは会社の同期Oさん、もうひとりは恋人です。
ふたりとも私の健康状態や職場環境、住環境をよく知ってくれていて、仕事を休んで治療に専念することを後押ししてくれました。

私が大切に思えなかった心身を大事にしてくれる人、しかもその人たちは私の大切な人なので蔑ろにするわけにもいかなかったのでなかなか踏み切れなかった休職を決断できました。
いま仕事を頑張らなくても、成果を出さなくても、大きな乳房がなかったり、今すぐセックスできなくても大事にしてもらえていることは、今までにもそうしてもらったはずなのは理解していてもきちんと肌身で感じたのは初めてかもしれない、そんな経験になっています。

友人、家族も含め、みんな私と関わることで利益を受け取れるから一緒にいるんだと思っていました。
友人は私という見た目の悪くない若い女性を連れ歩けるメリット、自ら話題を提供しなくてもしゃべり続ける女友達という駒として私に関わりたがるんだと思っていました。
家族は私の出身校や職場など肩書きによってまともな教育を施したというお墨付きが社会から世間からもらえるから縁を切らないんだと思っていました。
今もその考えは変わりませんが、少なくともOと恋人は違うことをよく理解していますし、そのふたりは私の本質を理解し愛してくれていることを信じています。

このふたりが私のそばにいる限り、私は自分自身を大切にできるだろうと思います。
こう思えること、信じられること、愛されることが心が健やかであるということだと思います。


健やかであるということ

信じるに値する、論理的思考と言語化スキルをもって私へ愛情を向けてくれるふたりのおかげで休職も取り、健やかさを取り戻しつつあります。

愛情は向けてもらえることだけでなく、こちらが気づかないと受け取れないものだと私は認識しています。
健やかになろうと思うとき、自分を大事にしなくてはならないのにそう思えないとき、自分に向いている愛情に気づくために視野を外へ広く、教養を深く、客観的に事実を確認するほうへ意識を向けられたら、気づけるのではと私のケースでは考えています。

長い人生、健やかさに欠け、自分を大事に思えない瞬間がきっとこの先もあるだろうと思います。
いま、このまだ若く未熟な時期に、このことに気づけた幸せを忘れずに進んでいきたいです。
忘れないでね、私。

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