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一つに重なる

ひんやりと張られたシーツの端に、蹴飛ばされて追いやられたタオルケット。縦や横になって眠る次男と三男。暗がりに流れるエアコンの風音。

あの夜もこんな真夏の夜だったのかも知れないし、こんな静けさだったのかも知れないと、ふと思う。


「ねぇ……起きてる?」

「うん、バッチリ。」

闇の中から、長男の声が返ってきた。
頭の中に蘇ってきた夜があまりに鮮明で、私の唇は半ば勝手に動き始める。

「ママがさ、小学生の頃だと思うんだけど、流星群が見られるって騒がれたことがあったの。こんなに盛大に見られるのはもう何十年に一度だとかって。」

うんうん、と長男の相づちが追いかけてくる。

「そんなに凄いんなら見てみようかって、夜の庭にシートを敷いて家族全員で寝転がってね。
でもさぁ、全然流れて来ないの流れ星。結構待って。そしたら一本来たの。ヒュンて。で、それからが凄かった。ビュンビュン何十本も何十本も。本当に雨が降るみたいに星が降って。
願い事?初めの一、二本はしたかも知れないなぁ。でもその後はそんなの忘れるくらいに圧倒されて……。」

早くなっていく相づちに、彼の大きな瞳がさらに大きくなっているのが容易に想像できた。寝室の闇しか映らないはずのその瞳に、何本も何本も光が流れているのが容易に想像できた。

「いいなぁ。いいなぁ。僕、まだ一回も見たことないんだ、流れ星。」


私の視線はその言葉にぴた、と止まった。おもむろに枕元のスマホをつかみ、思い切り目を細めながら画面の明るさをぐぅと最小限に絞って、検索画面を開く。

「 2020年 流星群 カレンダー 」

パッと開いた予定表を慎重にスクロールしていく。その小さな画面を脇から覗き込む長男の頭。

次の流星群…、次の流星群は…………

画面を滑る指が静かに止まる。



ニ日後の夜だった。



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流星群。
彗星が太陽に近づくに連れて、彗星をつくっている岩や氷が蒸発する。ばらまかれる彗星のかけらが長い長い尾をつくる。その軌道に地球が近づくと、そのかけらが次々と地球に飛び込んで流星群となるのだという。



この壮大な宇宙の中を私達は飛び回っているのだ、というこの事実は、空を見上げるだけでいとも簡単に伝えることができるのに、なぜ彼が生まれてからのこの十年もの間、私はそれをしてこなかったのだろう。

「僕まだ、一回も見たことないんだ。」

彼の言葉が私の肺にひたりとくっ付いた。



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二日後の夜、遊び疲れて眠りに落ちた次男と三男をお盆休み真っ只中の夫に託し、私は近所の公園へと向かった。はしゃぐ長男と共に。
そわそわと何度もベランダと居間を行き来していた彼には、鬱陶しい雲がちゃんと見えていたはずなのだけれど。


住宅街から一歩足を踏み入れると、そこは深い藍色の世界だった。公園広場の真ん中まで行ってみようと歩を進めながら、待ちきれずに視線は空へ飛ぶ。
視界には、真っ黒な木々の端々と、やはりもやもやと広がる灰色の雲。

「あぁ…やっぱり見えないねぇ……。」

私はちいさく語りかけた。うん…とちいさな返事が聞こえた。
雲の隙間に確かに二、三粒の星が見えたが、それはいつも目にしているお馴染みの星のようで、しっかりと夜空にくっついていた。
なんとかその星が空から剥がれ落ちてくれないかと真っ直ぐな視線を送る横顔に、すっと面影がさした気がした。


二歳くらいの彼の顔だった。

つるんと切りそろえられた細い髪の毛、真っ白でふっくらと瑞々しい頬、それを優しく包み守るかのような柔らかな産毛、艷やかな漆黒のまつ毛が透きとおる瞳の純粋さをなぞっている。
「まんまぁ」と、私を呼ぶ甲高いあの声が聴こえてきそうだ。あの、私の子宮に響く細い声が。


数日前、戸棚の掃除をしていたら出てきた懐かしのハンディカムを開いてみたからだろうか。狭く冷たく無機質な中で長い間眠っていた幼い彼を、揺り起こしたからだろうか。


 

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「どっち?男の子?女の子?」

小さなアクセサリーショップに、明るい声が響いた。常連客の年配女性だった。細かいキラキラをショーケース内に並べていた私の手が止まる。私はつんと突き出たお腹にそっと掌を添えて答えた。

「男の子です。」

女性客の顔にぱぁと光が宿った。この光を、知っている。何度か目にしたことのあるそれに、彼女の口から今溢れ出ようとしている文字がはっきりと見えた。そしてやはり彼女はそのままを口にした。

「私にも息子がいるのよ!」

そして彼女はその光を放ちながら笑顔で続けた。

「じゃあ強くならないと!男の子のママになるならね!」

自動ドアがシューとスライドし、彼女の笑顔と光を連れ去っていく。店内に残された私の横には、あの言葉だけがゴトンと置き去りにされていた。

じゃあ強くならないと。
男の子のママになるならね。


手元でいじる細かなキラキラがただの石粒になっていく。どうしようもない不安が、石粒が石ころが岩が、私の肺に溜まっていく。どうしようもなく、息が出来なくなってくる──。



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「まんまぁ!まんまあ!」
ハンディカムの小さな液晶の中の小さな男の子が、ワガママを撒き散らして泣き止まない。
何度言い聞かせようとしても、言葉なんて役に立たない。苛立ちが沸騰して、ニ十代の若い私の横顔が苦しそうに歪んだ。

途方に暮れた若かりし私は、泣きわめく息子の顔の前にピッと人差し指を立てた。
彼女が次に何をするか、私には分かる。
私は彼女の横顔をじっと見つめた。

彼女は、柔らかな前髪が乗っているその小さな額を人差し指でちょん、となぞった。


それが、彼女に出来る最大のゲンコツだった。
柔らかくて小さなこの子に手をあげることが、どうしても出来なかった。
しかしそんな人差し指に、彼の感情を制する力なんて全く宿っていない。
ヒートアップしていく泣き声と叫び声が脳を食い潰していく。
肺の中の石粒や石ころや岩のゴロゴロと重い音に、あの日の高い声が混ざる。

強くならないとね。強く。強く………。


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「ごめんね。」

なんとか夜空から星を剥がし落とそうとしていた真剣な横顔が、ぽかんとこちらを向いた。私の目線に、そう変わらない高さの目線が交じった。

こんなに太い髪の毛、こんなに日に焼けた肌、こんなに骨ばった肩、こんなに筋肉質の腕、こんなに黒い瞳。

これが、私から産まれた、あの子。
小さな液晶の中にいた、あの子。


「え?何が?」
夜空に突如浮かんだ謝罪の言葉に、彼は立ち位置を見失ったかのように目を泳がせた。


「ごめんね。この間、お風呂でゲンコツして。」

私は彼をあの日の浴室に連れ戻した。
少し角度を下げた横顔が、…あぁ…あれは僕が悪かったし……と小さくつぶやいた。



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時間短縮、効率化──。
これが我が家の、いや、私のモットーだ。

時間に追われ、やるべき事や、やった方がいい事に追われる私を、兄弟喧嘩やグズりやワガママがさらに追いかけてくる。

あの夜も、一括で全てを終わらせるべく、私は子供達全員と浴室に入っていた。一分でも早く洗い上げ、歯磨きをさせ、必ず九時には就寝させる。帰宅からの二時間で帳尻合わせをしながらなんとか整えようとする「規則正しい生活リズム」は、もはや脅迫概念のようだ。


今のうち、今のうち。
次男と三男の機嫌が良いうちに、と、泡のついたこの頭にシャワーを浴びせた時だった。いきなり次男の火のついたような叫び声。驚いた三男が大声で泣き出す。
慌てて半分泡を流し片目を開けると、泣き叫ぶ二人の姿と、笑顔で水遊びをする長男のコントラストが見えた。
次男が、長男にされたという悪事をおぼつかない言葉で泣きながら伝えてくる。泡まみれの私に向かって。

ずれ込む就寝時刻。チャラになる一分一秒の努力。膨れ上がる苛立ち。
テレビなど眺める暇もなくあらゆる事をやっている私になんで頭の泡すら流させてくれない。もうこんなに大きくなったはずなのになんで協力できない。何度も言っているのになんでこんな事が分からない。
怒りが膨れて膨れてこの皮膚を破って飛び散ろうとする。へらへらと水遊びを続ける長男に、私は拳を握り、気づいたらそれを振り落としていた。


いや、気づいたら、ではない。

私は意図的に、怒りの意思をしっかりと持って、それが彼にしっかりと伝わるように、彼の頭を目がけてしっかりと振り落としたのだ。冷たく固い拳の中に、沸騰した怒りを込めて。


重く熱い衝撃にバッと顔を上げた彼の瞳。その瞬間、フラッシュが破裂し私の胸に焼き付いた。まるで一枚の写真のように。


彼は、二歳の彼の顔をしていた。




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灰色の雲は次第に厚さを増しながら広がっていき、空の隙間を容赦なく埋めていく。見えていたはずのニ、三粒の星ももう見えなくなった。私達はゆっくりと公園をあとにする。黒いアスファルトの凹凸がただただ、するすると流れていく。
急に、母の声がした。

「もう一度、やり直したい。今ならもっと、ちゃんとできる気がする……。」

いつだったか、空いた缶ビール数本の横で、とろんとした目の母がつぶやいた。彼女は自身の子育てを振り返り、そうつぶやいた。初めて聞く、彼女の後悔の言葉だった。


幼い頃の私。小柄な少女が黙って見つめる先には、弟の世話で忙しい母の姿。弟を最優先する姿。こちらを見向きもしない母に、言えずに飲み込んだ言葉達。大人になるに連れて心臓にこびりつき硬くなって、もうまるで私の一部と化していたそれが、母のその言葉を聞いた瞬間、嘘のようにしゅるしゅると溶けていくのを感じたのだった。


まるでそれが些細なことかのように言葉を返した彼の中に、凄まじい記憶力が宿っていることを私は知っている。恐怖も痛みも衝撃も、鮮明に強烈に彼の中に残っているはずだった。
彼の心臓にこびりついて固まりゆくそれを、なんとかして今、溶かしたかった。それが彼の一部と化す前に。大人になるまで抱えていくことのないように。
あの長男の歪んだ瞳を思い出すたびに、耐えられなくなって寝顔に何度つぶやいただろうごめんねを、今夜彼はどんな気持ちで聞いたのだろう。

 

母の後悔が、私の後悔に重なり、
十歳の彼が、二歳の彼に重なり、
幼い彼が、幼い私に重なった。




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「ねぇ次はいつかな、流星群。また見に来てみようよ。」
大きな瞳で彼はそう言った。もう既に、一筋の流れる光を見つけたかのように大きく丸い瞳で言った。

私達は、まるで母親の後ろ姿を追いかけるように彗星の行方を追って、まるで母親のエプロンの紐をつかむかのように流れ星に向かって手を伸ばす。
まるで、母親が残していったそのかけらに少しでも触れようとするかのように。
手を伸ばしてつかまって、どこまでもくっついて行こうとする純粋な子供のように。


我が家までは、もう少し。
私はそっと長男の左手を握った。二歳の彼の手をそっと握ったあの日のように。
きゅっと握り返す力はしっかりと強く、厚みのある掌は丈夫な皮膚に覆われている。それはあの頃の柔らかさや瑞々しさとは似ても似つかなかったけれど、これは、確かにあの子の手だ。


この子は、私から産まれた、私のあの子だ。





ナイトソングスミューズ(Muse杯)に参加しました。歌声と夜空と女神に触れて書き尽くす、とても貴重な体験となりました。ありがとうございました。









ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!