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生ける

前回の定期便で届いたユリの花が、まだ咲き誇っている。もう2週間経つ。
この間、花瓶の横を通り過ぎようとしたら、キラリと小さな光が目の端に飛び込んできた。思わず立ち止まった。振り向いて気づいたが、光っていたのは雌しべだった。私は顔をすれすれまで近づけてじっと見つめた。
雌しべは濡れて、照明の灯りを受けて輝いていた。
最初に咲いた花、次に咲いた花のどちらの雌しべも潤っていた。


花びらの中心に真っ直ぐに立つ雌しべの周りに、ばさばさと花粉を落としながら取り囲む雄しべがあった。よく見ると、濡れて艶めく雌しべの上に――風も吹かないこの部屋で一体どんな手を使ったのか――オレンジ色の粉が数粒くっついていた。

「わっ、ママ。どうしたの?」
花びらに突っ伏した私の後頭部に長男の声が飛んできた。
「ああ。ね、見て。ここ、粉ついてるの」
「え?あ、ホントだ」
「雄しべたち背が低くてさ、結構雌しべから離れてるのに、ちゃんとついてる。雌しべ濡れてるんだよ、花粉がくっつきやすいように」
「受粉だよね、理科でやった」
「これが花の子供の作り方なんだねぇ」
「そうだねぇ」

母親が何を見てるか知った彼はその後どこかへ消えていった。

顔をゆっくりと上げた。長男のこういうところが気に入っているのだと気づく。あるがままをそのまますっぽり受け取るところ。『そういうもの』として、『そういうこと』として、そのまま取り込むところ。それって簡単なようでなかなかに難しいことだ。先入観や偏見なしに、ただそのものを見る。
濡れた雌しべに雄しべが粉を付け子供を作っているということをただの現象として見ている。それを人間の行為に投影したりなどせずに。

そういえばある時、生理痛で塞ぎ込みながら、近くでテレビを見ている長男を見てふと、小学5年生だな、と思った。
「ねえ、保健体育で生理って習うと思うけど、」
と唐突に私は話し始めた。
小学5年生の時に男子と女子とに分けられて、保健体育を受けたときのことを思い出したのだ。
「あ、それなら4年のときに習ったよ」
え、と自分でも驚くくらいの大きめの声が出た。今は4年生で教えるのか、そうか、と心をなだめて話を続ける。
「じゃあもう知ってるんだね。ママ今それだからさ、生理痛で辛いのよ」
あ、そうなんだ、と普通に返す彼に、ごみ捨てお願いと普通に頼む。彼は「へいへーい」と普通の顔でごみを捨てに行った。

彼になら、あらゆる現象を伝えられそうだと思った。避妊の話なども、普通の顔をしてあるがままに。

―――

3番目の花が咲いた。

見惚れる程に真っ白い花が咲いた。一点の汚れなく清らかで、雌しべはさらりと乾いている。隣の花を見る。濡れた雌しべは粉で覆われ、花びらの端の方は茶褐色に変色してきていた。
実に人間的だと思った。少女から老女へ。幼子から老人へ。
生き物とは、命とは、その種族を乗り越えて一連のプロセスを辿っているようだ。ただ一様に、一心に。

雌しべは成熟すると蜜を出すという。受粉した花粉からは、管が伸びる。花粉管だ。それは、雌しべの中を通ってずっと奥まで伸びていく。そこに実がなり熟していく。中にはたくさんの種がなるそうだ。

今、このユリの花たちは、花瓶の中でその一生を大きく膨らませている。体の凄まじい変化を受け入れつつ。
華奢だった体が、どんどんと重たく膨らみ、折れ曲がっていくのを思い出した。不安の渦に徐々に練り込まれていくあの感覚。大きな傷み、衝撃と引き換えに我が子をこの手に抱いた。その顔を見て、あぁ、あなただったのねと呟いた。

ユリたちは、子を抱くことはない。根から切り離されたユリは、種を完成させるまでの力が残されていないそうだ。

「切り花はかわいそう。鉢植えがいい」
と言っていた小学生の頃の自分を思い出す。
部屋を飾りたいからと、送迎会があるからと、そんな人間の都合でその命を半分切り取られる花が可哀想だった。
今でもその思いは私の中にある。切り花を飾るのが正しいことなのか、実は分からない。それでも、言い訳をするとすれば、私は多分、花を『飾って』いるのとは違う感覚で花を生けている。
ともに暮らしていた魚や犬が亡くなった去年、私は花を生け始めた。生きようと藻掻き吠える姿を見て、微かな灯火が最期息絶えるのを見て、命というものを目の当たりにした気がした。その後、静かになった人生の中で、どうしようもなく、花を生けたくなったのだった。
弔いのつもりだったのか、何かにすがりたかったのか、それは今でもわからない。あるいは、その両方だったのかも知れない。
そして今、またこうしてその花たちに命を見ている。自分の命を重ね合わせ、繋げて、順繰りに思い起こして。
私という性分は、これからも花を生けていくと思う。それが正しいことなのかは分からないけれど、そうする他ないというように。



本日新入りのお花たち。若々しくてフレッシュ。子供の頃を思い返す。あの頃に戻れたら、やり直せたら、今とは全く違う人生を選ぶんだろうか。いや、なんだかんだ言って結局今の場所に辿り着きそうな気がする。



〜 #お花の定期便 (毎週木曜更新)とは、湖嶋家に届くサブスクの花束を眺めながら、取り留めようもない独り言を垂れ流すだけのエッセイです〜



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