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6枚のドア

この地球は愛おしい。
なぜなら人間を乗せている。

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韓国で出会ったアメリカ人がいる。
私はその時23で、彼は70位だった。
瞳はライトブルーで、まさに澄んだ水の色をしていた。僅かばかりの白髪を少し伸ばし、小さくゴムで結わえていた。そしていつもキャップをかぶっていた。

バックパッカーが集う安宿のロビーで知り合い、その後ふたりで旅をした。
ソッチョ、といっただろうか。
そんな名前の港町までバスを乗り継ぎ、旅をした。

ビビンバを食べ、マッコリを飲み、コンビニでアイスを買う。そんな、緩やかな日暮らしのような旅。肩を並べ共に歩く、人種も年齢もちぐはぐな2人は、1枚の異様な絵のように見えただろうか。

友達だよ、と彼が言った後に、魚市場の女の顔面に冷ややかな微笑が乗ったのを覚えている。

そんな目をされても、私達は友達だった。
日本とアメリカ。
全く別々の場所から長い線上を歩いてきて、ある点でぴたりと目が合った、呼吸が合った、特別な友達だった。

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マッコリを飲みながら、でもまだ酔いなど回っていない、けど確かに気分が高揚していた夜だった。
彼は食堂の窓から滑り込んできた夜風をさらりと浴びて、故郷の話を始めた。
彼は、アメリカはニュージャージー州の出身だった。

「昔ね。ずっと昔の話。ある日、スーパーに買い物に行ったんだ。

買い物が済んで駐車場に向かっていた時にね、知り合いの奥さんにばったり会ったんだよ。娘さんと一緒だった。少し立ち話をしてね。その奥さん、器用で手芸をやってた。今日はちょっと糸とか、手芸用品買い足しに来たんですって言ってたな。

そしたらね、
この子、今度ニューヨークに行くことになったんです、って娘さんの話になった。
演劇を学びに、女優になりたくて、って。
その子のことは幼い頃から知ってる。
いつの間にか大きくなってて、とても聡明で明るい顔をしてた。肩くらいまでのきれいな髪でね。

うわぁそれは良い!きっとうまくいくよ!幸運を祈ってるね!って僕言ったんだよ。
そしたらその子、ありがとうございますって、はにかんだんだ。」

彼の瞳は、テーブルを見ているようで、テーブルの上に映し出された映像を観ていた気がする。
色素の薄い、短いまつ毛が穏やかに上下した。


夜風が心地よい。
頬を、おくれ毛を、遠い昔の思い出を、すんなりと撫でていく。
自然とマッコリカップが唇に触れた。
私のそのひとくちを見届けたあと、彼は穏やかな音色で続けた。

「メリル・ストリープっていうんだ。」

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彼女の大きな笑い声が好きだ。
見下すような冷酷な眼が好きだ。
知的で控えめな鷲鼻が好きだ。
色香を含んだ上唇が好きだ。
柔らかな声色が好きだ。
慈悲深い眉間が好きだ。

彼女の映画は何本も観てきた。
何本も、何本もだ。

13歳の私が、17歳の私が、22歳の私が、刻々と変化する生の心臓を預けてきた、明け渡してきた役者だった、彼女は。
その小さな心臓を容赦なく鷲掴みにしたり、そっと両手でやさしく包んでくれたりした人物だった、彼女は。

「ちょうど、ここに来る飛行機の中でも、彼女の作品を観てきたよ。」

彼はやっと私の目を見た。
ライトブルーの瞳にぱっと光が挿した。それは一瞬でいたずらっ子がするように、細くなった。


「驚いちゃったよ。彼女、全く変わってないんだもの!」

彼は嬉しそうに満足そうに笑いながら、マッコリを飲み干した。

私も、飲み干した。
しかしそれは得体のしれない味に変わっていた。
呆気なく、力強く、変わっていた。

とっくに諦めたことが目の前に舞い降りたような揺さぶり。いきなり噛み合ってガタガタと動き出した歯車のような唐突さ。


一切の交わりやつながりをもたない彼女と私が、
画面の中と外という、別次元に住む彼女と私が、
今この瞬間、1本の線で結ばれた気がしたのだ。
散らばっていた3つの点を、誰かが鉛筆でスーッと、いとも簡単に繋げてしまったかのように。

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どこで目にしたか、耳にしたか。

「6人の隔たり」という言葉があるそうだ。

人間は、世界中のあらゆる人間と繋がることができるという。
6人の人間を介せば。

アフリカの少女とも、イタリアの教師とも、キューバの船乗りとも、マレーシアの絵描きとも、繋がることができる。

パタンパタンとドアを開けるように、6人に心を開いていけば、私達はこの世界中に存在できるのだった。
たった6人の隔たりで、たった6枚のドアで、この大きな地球はまるっとひとつらしかった。

そう、日本人の若い女がある日突然、このドアのすぐ向こうに、ハリウッド女優がいると知ったくらいに。

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ドアをいくつ開けても目当ての人にたどり着かない場合もある。
その時は、正しい6人を選ぶ必要があるそうだ。
その人に繋がりそうなドアを選ぶ必要があるそうだ。

でも、一人ひとりの持つドアが、どこの誰に繋がっているのかなんて、何人の人々に繋がっているのかなんて、私達には到底見透かすことは出来ないだろう。

「6枚のドア」の真理は、会いたい誰かに会うために周りの人々を賢く利用すべき、ということではなく、
地球はそんなにも丸く、人間はそんなにも近い、ということなのだと思う。

10枚、20枚、扉を開ける度に、はっと息を呑むような、感謝で心が洗われていくような、そんな出会いもあるだろう。
自分の拙い経験値では想像もし得なかった、新たな出会いがあるんだろう。

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偶然、異国の地で見つけた安宿で出会った人が、ぱあっと扉を開いたら、その向こうであどけないメリル・ストリープがはにかむ瞬間を目撃したあの夜。

そんな奇跡がごろごろと転がっているこの星に私はこうして今、立っている。
毎日、今この瞬間も、誰かが誰かのドアを叩き、誰かが誰かを招き入れたりしている。
パタン、パタン、と。

現実とネットのはざまで他人を介さず、クリックひとつで効率的に誰かと繋がれたとしても。

ウイルスの波に呑まれてぽっかりと空いたソーシャルディスタンスに淋しさを覚えようとも。

それでも私は、偶然が重なり合い、人生が重なり合って初めて弾ける、あの音を求め続ける。

パタン。

この地球は愛おしい。
なぜなら人間を乗せている。
繫がり合って、絡まり合って生きる姿は、愛おしい。

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