雨音響く17年

 皆が寝静まってから、スティックタイプのカフェラテを取り出す。さらさらとマグカップに入れ、そこに南部鉄器で沸かしたお湯を注ぎ込む。甘ったるい香りが鼻腔を撫でてゆく。窓の外は大雨。冷え性の冷たい指先が、少しずつ解けてゆく。

 あ。
 はたと気づいて数秒、私の体は停止した。36の私は、今年37になると気づいた。37。37は、あの人の数字だ。

ーー

 20の頃、37の男に焦がれていた。
 17も上の人に恋したのは、後にも先にもこの時だけ。彼は私の通う習い事の講師だったし、薬指が空いているからと言って独身とは言い切れなかったし、何より私は幼かった。
 背伸びしたところで、彼は私がこの世に存在すらしなかった17年間を知っているのだし、彼はそんな穏やかな大人な目をしていたし、きっと私は弾んで揺れる子供の目をしていた。そしてそれほどまでに相反する瞳に映る世界は違う色をしていて、重なることはなかった。
 それでも柔らかく滑り落ちる前髪に、頷きながら垂れる目尻に、大声で笑う無邪気さに、吸い込まれそうなこの距離に、17年間など飛び越えられそうな気がしたのだった、それもいとも簡単に。

 季節が巡るうちに私の思いは重なり積もって溢れ出した。土砂降りの夜だった。暗い部屋のなか、携帯の画面が白く浮かび上がっていた。
止めどなく注ぎ続ける雨。風もなく、雷もなく、ただ真っ直ぐに地上に降り注ぎ続ける。終わりなど来ないかのように延々と。
降り止んでほしい。今すぐ降り止んでほしい。さもないと私、この土砂降りに流されてしまう。流されて言ってしまう。溢れ流れて伝えてしまう、あの人に。

 ああ。

 画面から離れた指。メールマークはくるくると旋回した後、「送信完了」に切り替わった。

 意気地なし。送信済みのメールはまっさらな空メールだった。次会ったとき聞かれたら「間違いました」と言えばいい、そうしよう。「あれ、そんなメール送ってました?」なんてとぼけてみせて。いや、むしろ向こうは気にも止めないかもしれない。こんな生徒からの空メール。きっとそうだ、覚えてもいないだろう。このまま何も無かったかのように隠し通せば、そう思ったのに、

「どうした、何かあった?」

と直ぐに返ってくるから、言ってしまった。全て、全部、伝えてしまった。たったひとこと、あの一文に全部を込めて。
 雨音は激しく、止む気配もなく土砂降りだった。

ーー

 あの夜から17年経つ。
 これまでの人生、17年分の経験を、テーブルの上に並べてみる。確かにどれも重くどれも深い。この17年間は、20歳のはやる気持ちだけでは飛び越えられそうにないほど、重く深い年月だ。私を諭そうとした37の彼を思い出す。

 彼は今、と、私の頭が計算を始める。足して繰り上がって、54だ。

 私が17年を積み上げたって、彼はさらに別の17年を積み上げる。縮まないし、追いつかない。
お前よくそんな甘ったるいの飲めるな、先生こそよくそんな苦いの、と言い合った自販機の前に立ったまま、私は37になっても、ブラックコーヒーを飲めないままだ。きっといくつになっても、彼を思い出すとき私は幼いままだ。

ーー

 夜の雨はさらに勢いを増していく。記憶からゆっくりと覚めていく。
 とっくに忘れたはずの恋だけど、忘れなくてもいいのかも知れない。あの頃私は恋をしていた。恋をしていた、全身で。
 もう冷えてしまった最後のひとくちを飲み干したら、私は立ち上がる。

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