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とろけるほくろ #note墓場


『男』と呼ぶには近すぎる、片割れのような、同志のような、ぶつかり合ったり溶け合ったりした人が消えた。
「もうすぐ誕生日だね。」
そんな最後らしくない最後の言葉を残して、彼は突然消えた。

 春が来て、同じ大学へ進学した。私達はそれぞれアパートを借りたが、ひと月もしない内に彼は私のアパートで暮らすようになった。ぴったりと寄り添い合い、一緒に寝て起きて食べていた。毎日、毎晩。
買い足したコーヒーカップ、読みかけのSF漫画、メンズ用のシャンプー、大きなパーカー。どんどん増えていく彼の持ち物に、困った顔して笑ったのはつい最近のこと。それら全てをここに置いたまま、彼だけが忽然と消えるなんて。

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 彼の匂いや体温が残ったセミダブルベッドに、抜け殻のように腰掛けていた。ふと掌に乗ったままのスマホに気づき、電源を押す。17:34という数字が、いつかの彼の背中に重なっている。地元の海岸。夏服。付き合って間もない頃の、一年ほど前の写真だ。今夜も彼は帰ってこないのだろうか。あの海岸は今もあそこにあるのだろうか。

 夕陽が充満する道路につっかけたサンダルの音が鳴り響く。そんな淋しい音を五分ほど聞き続けたら彼のアパートに着いた。外壁がブルーグレーなんて格好いいっしょと笑ったあの人はどこへ消えてしまったんだろう。
 郵便受けには色々なチラシが挟まっていた。県民共済もスポーツジムも配達ピザも、もうこの部屋には不要なのに。
 合鍵をぐっと挿し込む。ガチャリと鍵穴が回った瞬間、不思議な感覚に襲われた。なぜ私はこの数日間ここを訪れずにいたのだろう。彼が消え去ってからもう4日経っている。あとは開けるだけのドアノブを握りしめながら、この感覚を突き止めようとする。何かを思い出そうとしているような、思い出してはいけないような、そしてそれはとても大事なことのような。

 思い切ってドアを引くと、こもった温風が勢いよく顔を撫でつけた。ふわんと彼の匂いがした。いや、違う。いや、これは確かに彼の匂い、なんだけど、何かが密かに混じっている。奥底から匂い立ってくる違和感。女、だろうか。いや、もっと素朴な、懐かしいようなこの匂いは、あぁ、思い出せない。もう少しで思い出せそうで届きそうなのに、あと少し、あと少しのところで、靄と化す。
 こめかみの辺りに嫌な痛みが滲んできた。寝不足だからか、ここ数日間頭痛に付きまとわれている。私は力なくドアを閉めた。その際に、温風がふわんと前髪を揺らした。今度ははっきりとあの匂いだけがした。まるで彼の匂いを呑み込んでしまったかのように。その中で、なぜか小学校の頃の下校風景がはっきりと見えた。

 あの道路は、背の高い杉林のせいで、いつも暗い。陽が当たらないので真夏でもひんやりしている。おしゃべり、をしているのは私だ。私だけが話し、隣の子はずっと頷くばかり。この子は誰だったろうか。長く黒い前髪が表情を覆って、輪郭がぼやけてしまっている。名前が出てこない。

 こめかみの痛みがジンジンと増してきて、私はそれ以上記憶を掘り起こすのをやめた。つっかけたサンダルの乾いた音だけを聞きながら、さらに濃さを増す夕陽に背を押されつつ来た道を戻った。

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 眠れない。目が乾き、頭痛が押し寄せて、脳は蝕まれていく。怖くて電気を消せない。黒は、闇は、孤独だ。ピ、ピ、とシーリングライトをニ段階下げて薄いオレンジ色にした。そういえば、まだ保育園児だった頃、夜が怖いからと言って、寝るときはいつも電気をこの色にしていた。

 お母さん、暗くしないで、あれにして、夕焼け色。 
 はいはい、夕焼け色ね。

 母の声を再生し、静かな夕焼けをまぶたの裏側に感じながら、私はスマホを枕元に置いた。最近入れた睡眠アプリから、子守唄のような穏やかな音色が流れてくる。眠気が眉間の辺りを撫でてゆく。あぁ今夜は少し、眠れそう。

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 くっきりとぼんやりの狭間を揺らぐ波のような夢を見た。
 またあの道路。杉林の陰の中を歩いている。ほくろの話をしている。口元の黒い点が嫌いだった。クラスの男子が「お前ゴマ付いてんぞ」とからかい、クラス中が笑いに満ちた日から、ずっと嫌いだった。こんなほくろ嫌だ、取っちゃいたい、と嘆くと、隣の子は困ったように笑いながら頷くのだった。
 ねぇほくろある?目立つほくろ、と私が聞くと、彼女は手の甲を差し出した。木陰の薄暗い中に、色白のひんやりとした肌が浮かび上がった。親指の付け根、手首の近くにぽつん、とある。なんだぁこんな小さいの、これだけ?これしかないの?いいなぁ。そして私の愚痴がまた始まる。彼女は少し笑って、また頷き始めるのだった。

 夢と現実が混ざりあった濃紺の場所で私は流れ来る思考をどうにかまとめようとする。
 私達は意気投合して仲良くなった訳じゃなかった。最初にクラスで孤立したのは私だったか。いやあの子の方だったかも知れない。そんなことはもう覚えてもいないが、とにかく爪弾きにされてる二人が身を寄せ合うようにくっつくのは自然な流れだった。そしてその様を、周りはさらに嘲笑ったり、とやかく言ったりした。

 陰と陽は紙一重だ。たった一日で世界は変わる。ある日、クラス内で中心的な女子グループが私に耳打ちしてきた。
「なんであんな気持ち悪いのと一緒にいるの?無視しなよ。」
 そうだ、あの日私は彼女達の“仲間入り”をしたのだった。暗い海の中で互いの手だけを頼りになんとか漂ってきた月日をいとも簡単に捨て去って。彼女を一方的に踏みつけることで、私は水面まで浮き上がった。陽射しをふんだんに浴びて胸いっぱいに空気を吸い込むと世界は鮮やかに動き始めた。暗い海底に沈んでいった彼女のことなど微塵も気にしなかった。私が仲間外れにされていたのは、疫病神のようなあの子が隣にいたせいかも知れないとすら思った。なぜなら彼女を蹴落とした瞬間からこんなに世界は明るさを増したのだから。
 いつもの「まぁちゃん、帰ろ」を聞こえぬふりして何度か通り過ぎた。そして彼女を見かけなくなった。登下校も、授業中も、休日も、町なかでも。それでもそんなことは全く気にならなかった。

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 佇んでいた場所の濃紺が濃くなり渋くなり明確になってきて、遂に私の脳は現実を捉えた。
 視界が闇で埋まっているのに気づくと、鼓動がみるみる加速していった。どうして。電気は夕焼けにしたはずなのに。呼吸が乱れてくる。指先がどんどん冷たくなっていく。なんとかベッドから這い出て転がり落ちるように床にぶつかると、ティッシュケースや飲みかけのペットボトルをなぎ倒しながら必死にシーリングライトのリモコンを探した。空気が肺を埋め尽くしていく。上手く吐き出せない。夕焼け夕焼け夕焼け─。黒が押し寄せてくる。何か、光─。光を点けなくては──。
 その時、足がガツンとベッドの枠に当たり、その弾みで滑ったスマホが床に叩きつけられた。震える手ですがるようにそれを掴むと電源ボタンを強く押した。

 パッと浮かび上がったのは、睡眠アプリの画面だった。ブルーライトがこの体にしみてゆく。膨らみ切った肺から少しずつ息が捨てられていく。
呼吸を整えながら、画面を見つめる。そこには私の睡眠データが刻まれていた。寝るまでの時間、睡眠時間、レム睡眠・ノンレム睡眠のグラフまで。その中のある文字が、私の視線を捉えた。

“睡眠中の異音”

 何かが録音されたということだろうか。私の意識がない間、私の肉体のみが横たわっていたこの空間で、一体何が起きたというのだろう。
 汗で冷えた指先が、つるりと光る画面に吸い付いた。呼吸が停止する。

「…ー、…スー、スー、スー……」

真っ暗な部屋の中に、穏やかな寝息が流れ始める。私の寝息だけが。何も起きていなかった。この部屋では何も。揺れていた瞳を瞼でしっかりと覆い、息の塊を吐き切ったその時、

「…カチャカチャ……カッチャン。…キィーーー……ガッチャン。」

聞き覚えのある音がした。玄関のドアだ。
背筋に痺れが走る。ドクドクと耳の縁が波立ち始める。なんで。なんで誰が。真っ黒な波にさらわれないように懸命に呼吸をしようとする。2本目のグラフに焦点を合わせ、そこになんとか震える指を乗せた。静かに離すと、汗の滴が乗って“異音”の文字が膨らんでいた。

「…………ペタ…ペタ…ペタ…ペタ………」

足音、だ。子供のように、気を遣わない足音。その音は徐々に鮮明さを増してゆく。玄関から上がり、廊下を少しずつこちらに進んでくる。その無邪気にも聞こえる足音は段々大きくなり、この部屋のドアの手前でぴたりと止まった。録音はそこで切れていた。耳が頬が、まるで心臓になったかのようだ。込み上げてくる涙が乾いた角膜にしみる。私は鼓動に急かされながら、必死に最後のグラフを叩いた。

「……ガチャリ。……ペタ…ペタ…ペタ…ペタ………」

誰かが、確かにこのドアを開け、この部屋の中に入ってきている。

「…っ……まぁちゃん。やっとだね………。」

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 ぶわっとあの匂いが強くした。懐かしくてたまらなくなる。囁くような控えめな高音は、聴き覚えのあるあの声だ。
 その時、急に冷たい何かが私の首にぐるりと巻き付いた。私の手は反射的にそれを掴み、引き剥がそうとする。その瞬間、黒い点がはっきりと見えた。瑞々しく白い肌、親指の付け根。

「一緒に帰ろ?まぁちゃん。」

穏やかな声。この脳に充満していく。呼吸は驚くほど深くなっている。息を吐く度にー段、またー段と降りていく感覚。荷物を一つ一つ降ろしていっているようだ。些細なことは何も気にならなくなるような、もう全てがどうでもよくなるような飽和した空気の中で、大事なことが一つだけ鎮座している。完結した闇に安堵感が満ちていく。

「うん、ひろちゃん、帰ろっか。」

 明るい無邪気な声が、この喉からするりと滑り出た。瞼の裏にあの杉林が見える。陽射しの届かない道路。並ぶランドセル。お喋りな私と頷く彼女。
 

 この首の一番柔らかいくぼみに、ひんやりとした指が数本めり込んでいく。私はとろけるように首をもたれて、その白い肌に滲む黒い点を見つめていた。





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こちらの企画に参加したくて書いてみました。

 ホラーって…何…こんなに難しい…の……?と愕然とするほどにテーマも構想も全く思いつかず、驚きました。同じような感じで、ショートショートなども、私が書いたらグダグダになりそうです。
 普段書いているジャンルと全く別のカテゴリに挑戦するのは難しいし、体力削るし、自信もなくしますが、とても勉強になりました!
墓場とは程遠いと思いますが…思い切って投稿してみます。
 挑戦の機会をありがとうございました。


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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!