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ミズキ #書き手のための変奏曲

 小柄で華奢だが曲線的な女だった。黒髪は柔らかく肩に乗っていて、その黒の深みの奥から香り立つものがあった。伏し目がちでその瞼は薄く透き通るような白だった。

「おつかれーっす。売上げお願いしまーす」

 もう三十になる癖に、こんな頭の悪そうな喋り方しか出来ないなんて我ながら情けない。将来の夢は社長になることです!と発表していた小学生の俺が見たら思い切り失望するだろう。何が社長だ、パチンコ屋でアルバイトだ。
 あ、はい、と小さく返事をし、彼女は立ち上がる。コツ、コツ、コツ、と彼女の音が鳴り響く。この二人だけの空間の隅々、細部にまでこの体から流れ出た神経が這ってゆく。夜更けの事務所は高密度だ。

 数十万を入れた百均のメッシュケースが、くたびれ、たわむ。彼女は、つー、と陳腐なファスナーを丁寧に滑らせて、静かに中身を取り出した。
 いち、にぃ、さん、し。ほっそりとした白い指先が紙幣に挟まったり出たりを繰り返す。それは時計の針音と同化してゆく。その様子を眺めていたら、脳を撫で回されるような不思議な感覚に襲われた。まるでじわじわと酒が回っていくかのように朦朧としてくる。立ちながら寝落ちしそうだ。雨は強さを増していく。夜更けの事務所は高湿度だ。

ーーー

 彼女の白い指の動きが、頭から離れない。あの催眠は一体何だったのだろう、と考える。いや、考えているようでただなぞっている。その他すべてがぼやけているのに、あの指先の艶めかしさだけがくっきりと浮き立って、それだけが真実のような気がしてくる。

 平日の公園で、三十近い独身男が炭酸(イチジク味)片手に、女の指を思い出している。我ながら気色悪い。
 つぅかイチジク味って何なんだ。攻めすぎだろ。売れないだろ。日本人守りに入るし。でも変なの出ると毎回買っちゃうんだよな俺。てかイチジクってこんな味すんだな。
 俺はまた一口ごくりと流し込んだ。炭酸はきつく喉を締め上げるのに、広まっていく気だるい甘み。何年後かに「復刻版」などと引っ張り出されたりするんだろうか。

 ぽたっ、ぼた、とジーンズが黒く染みた。休みで寝坊し、天気予報を見逃した。このまま強くなったら厄介だ。早く帰宅しようと公園を突っ切る。太い木の後ろで小学生がわいわいやっているのに気づいた。子供は雨でも関係ない。俺もよくびしょ濡れになって帰っていた。懐かしさに思わず振り返ると、小学生が数人、傘を振り上げて木の幹をガツガツ刺しながら盛り上がっていた。やっぱり男子はくだらないな、と目を反らそうとしたとき、細い足が見えた。

 自分の怒鳴り声が聞こえた。小学生がばらばらと散っていった。幹を回り込むと、逃げていったあいつらよりひと回り小さな少年が固まっていた。細く白く折れそうな足が、半ズボンからそっと伸びている。それらは所々まだらに赤く染まっていた。
「大丈夫か」
男の子の目を覗き込むと、それは地面の一点に貼り付いたまま硬直していた。胸が詰まる。たまらなくなりそっと問いかけた。
「飲むか、イチジク」
すると意外にもその視線はふわりと浮上し、缶に止まった。
「珍しいよな」
笑いかけると、細い首がこくりと振れた。雨の音が強まっていく。俺たちはもう結構濡れている。

ーーー

 小さな傘に、ごついアラサー男と、血を滲ませた小学生がきゅうきゅうと入っている。通報されないか冷や冷やしたが、皆必死に大雨の中を行き交っていて、俺らのことなど気にも留めていないようだった。
 アスファルトに叩きつけられ少年の脛に弾け飛んだ雨粒が、滲む血液と混じり合い白い肌を滑っていく。無言で歩みを進める様が痛々しい。

「あいつら先輩か」
憎たらしい後ろ姿が思い出された。
「いや…」
自己主張の欠片もないその白さが、感情も滲まない整った顔が、あいつらを焚きつけるんだろうな、と感じた。


 少年の歩調が徐々に緩み、とうとうぴたりと止まった。そして彼は俯きながら細い指で二階建てのアパートを指さした。
「ここ、です」
それは古くもなく新しくもない、小さすぎず大きすぎず、可もなく不可もない建物だった。ぼやけた淡いクリーム色の壁面に掲げられた看板[キャッスル]だけが不釣り合いで目を引いた。キャッスルはどう見ても言い過ぎだろう、と小さく突っ込みながら玄関ドアの前で止まった。

「じゃあな、母ちゃんに手当してもらえ。それとな。負けんじゃねぇぞ」
感情が漏れないように、顔いっぱいに笑顔を乗せて小さな頭に手をやった。不安げな瞳にもう一度笑いかける。そして振り返り、大雨の中に飛び込む決意をした時、
「あ、待って」 
少年の声が背中に当たり、それに半ば重なるようにしてドアの開く音がした。
「ススムくん?」

 体中の筋肉が硬直した。血液が分かり易いほどに走り出す。ぎこちなく体の向きを変えると、ある姿が目に飛び込んできた。白い手首。華奢な肩。その上を滑る黒髪。穏やかに伏せた薄い瞼がゆっくり上がり、俺を捉えた。初めて真っ直ぐ見つめたその瞳は、青を含んで濡れた黒をしていた。
 雨足が強くなる。激しさを増していく。雨音が響いてくる。それはまるで頭の中で降っているかのように。雨粒は脳を打ち付け次々と流れ落ちる。俺は土砂降りに呑み込まれていく。

ーーー

 もう何日目か判らない。髭でも伸びてくれば手がかりくらいにはなっただろうが、一向に伸びてこない。綺麗なもんだ。ラクだから別にいい。
 ススムはいない。いや、俺が寝ている間に帰宅して、俺が起きる頃にはもう登校しているのかもしれない。逆に彼女は、ミズキは、いつも居る。目が覚めた瞬間から絡み合っている。いや、絡み合いながら目が覚めている。そして絡み合いながら眠りに落ちていく。もう俺の皮膚かミズキの皮膚か、どっちがどっちか分からない。引っ付いたのか溶け合ったのか境界線は失われ、どこまでが俺の体なのかぼやけてしまったのだ。いや、俺の触覚が手足から延び出して、ミズキの皮膚内に侵入し一体化してしまったのか。それともミズキの触覚がこの体に入り込んできたのだろうか。

 薄暗く染まるカーテンは、夜明け前だろうか、夕暮れだろうか。時間の概念も日付の境目も存在しない俺たちの日々はただ流れていく。もしくはただ、止まっているのかも知れない。
 ミズキの胸に落ちた俺の汗は、その白く柔らかい皮膚に染み込み消えていく。まるで呑まれていくように跡形もなく消えていく。燃え盛っては果て、求め合っては溺れていく。
 今年の梅雨は長い。外はずっと土砂降りのままだ。すでにミズキで溢れ出しそうな脳みそに、激しく雨は降り注ぐ。弾けるように撫でるように流れるように。記憶、世間体、感情、常識。雨はすべて押し流していく。ここには、ミズキと俺だけだ。

ーーー


 ぼんやりと目を開けた。いつも通り薄暗く、雨音が響き渡り、ミズキが絡まっている。
呆けた頭のまま、天井を眺めていた。微かな凹凸に気づく。これまで天井なんて見上げず気づかずにいたが、なかなか特徴的な模様だ。しばらく視線でなぞっていると、凹凸が濃くなってきた。見つめるほど、なぞるほどにそれはくっきりと明確に浮き出てきて、俺の記憶の先端と繋がった。
 こめかみに汗が滲む。息が上がる。荒ぶっていく。指先が冷えていく。耳の際が脈打ってくる。股の間に埋め込まれた白い太腿を思わず剥ぎ取り、跳ね起きた。

「どうしたの、シマくん」
「帰らなきゃ。もう帰らなきゃ」

キャミソールの肩紐をたらりと落としたままミズキは一言、どうして、と呟いた。

「思い出したんだ。うち、親がかなりの歳で。俺が世話しなきゃいけないのに」

 ミズキはじっと俯いていたが、そっか、と伏せた瞼で小さく答えた。そしてベッドに膝立ちになると、細く白い腕を伸ばしカーテンをさっと一気に開けた。その瞬間、あまりの眩しさに部屋全体が靄のように白けた。目が染みるようにくらむ。頭が膨張し始め、意識は遠のいていく。太陽の光に消え入る俺に、ミズキが何か呟いた気がした。

ーーー

 公園のベンチに腰掛け、もうどれくらい経っただろう。脳が処理しきれないほどに膨大な現実が目の前に広がっていた。それをなんとか代わりに受け止めようとした心もショートしてしまったようだった。

 数時間前このベンチで目覚めた俺は、両親が気になって実家に行ってみた。そこはなぜか空き地になっていた。訳が分からず隣の家のインターフォンを押した。表札が変わらず森田さんだったからだ。出てきたのは森田のおばさんだった。あぁおばさん、隣の島です、と会釈をすると、おばさんは怪訝そうな顔をした。
「島さん。島さん…。隣はずっと空き地ですけど…。ちょっと母に聞いてきますね」

 杖をついてゆっくり出てきたお婆さんは、でこぼこに曲がった指でふるふると俺を指した。

「あんた…。島さんの息子かい。遅いよ、あんた。今頃、なんね」
どういうことか詳しく聞かせてほしいと頼んだが、親不孝のあんたには言わんと突っぱねられた。好きに生きたらいい、もう忘れな、と諦めたように言い残し、お婆さんは奥の部屋へと戻っていった。おばさんが、すみませんね、と困り顔でドアを閉めた。

 その後自分のアパートへ行ってみたが、ポストには見知らぬ名前が貼られており、 見知らぬ南京錠がかけてあった。混乱を引きずりながらふらふらと引き返した。ここまで来ると、おかしいのは周りではなく自分かもしれないと思い始めたのだ。そして行くあてもなく公園に戻り、またこうしてベンチに座っている。

「いい天気っすね」
 突然聞こえた声に戸惑いながら目をやると、右隣のベンチに若い男が座っていた。
「ロックっすね、格好が若い」
俺は指さされた穴あきジーンズに目をやった。こんなものの何がロックなのだろうか。
「そんな年のとり方憧れますよ」
 
 やはり。
 俺は前のめりになって若者に詰め寄った。
急な動きに膝がぎしりと鳴いた。

「俺に何が起きた。俺の体に、世の中に何が起きた。あのアパートから出たら何もかもが変わっていたんだ、そんなことっ、」
 
 喉からひゅーひゅーと音が鳴り出し、肩がせり上がり、呼吸がうまくできない。水、水っ、なんでもいいから水分、とおもむろに若者の握っている缶ジュースに震える手を伸ばした。

《復刻版!よみがえるイチジク味!》

視界が暗転する。雨音が響いてくる。土砂降りが襲ってくる。
もういっそこのまま、流されてお終い。





こちらに挑戦してみました。
リライト作品を募る油森マリナさんの企画です。


ほぼ一年前の七夕、このお誘いを目にしました。その時、私はすぐに書き始めませんでした。ある決意をしたからです。私は一年後の七夕にマイルストーンを置きました。


七夕が近づき、私は作品を書き始めることにしました。
一年前、リライトするのは自分の作品だと当然のことのように思っていました。しかし、この一年で視野が広がり、他の誰かが書いた作品をリライトしてみたくなりました。
選んだのは、ある日本昔ばなしです。

童話や昔話は、メッセージが簡潔です。「嘘をついたらバチが当たる」などの教訓がはっきりと書かれている。しかし一つだけ、大人になっても解らない作品がありました。
浦島太郎です。
あの話は一体何が言いたかったのだろう。

今回、リライトするに当たり、私なりの理解と見解が見つかり、私なりに紐解けた気がしました。
マリナさん、貴重な体験をありがとうございました。








ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!