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山吹色の財産

ひとつ公募に出して、またひとつ書き始める。そんなことをして、日々が過ぎていく。かつて、と言いかけて立ち止まる。

かつて、私は全力でエッセイを書いていた。エッセイは私の中心だった。しかしその位置は小説に取って代わられた。そこには今、小説が鎮座している。置き去りにされたエッセイは、私を待っているだろうか。

私は随分と薄情な人間で、書き終えたものをことごとくなおざりにしてきた。書き始めた頃の文章は幼く拙く見ていられない。恥ずかしさに飲み込まれて何度消そうと思ったことだろう。何十枚もの原稿用紙を消しゴムで擦り上げる必要などない、人差し指で叩けば消え去る簡単な命だ。

ある日を皮切りに、通知画面に山吹色が次々と咲き始めた。カラストラガラさんのアイコンだった。
題名を見たって、もう内容を思い出せないものもたくさんあった。私はそれらを開いてみる。置き去りにしてきたいくつものエッセイは、まるで道端に転がる軽石のように色味を失い、白け、風化し、空洞だらけだった。つまらない軽石は、そっと山吹色に包まれ、しげしげと眺められ、小さな声で喋りだす。その人は、しっかりと聞いてくれる。軽石は赤や青や緑の混じり合った複雑な色味を吹き溢し始める。そして軽石ではなくなっていく。もう一度生まれるように。もう一度生きるように。

まるで堰切ったようにこの体から溢れ出した熱だけで書いていたあの頃。二歳児の口からはやる気持ちが飛び出していくようだった。なんの術も持たずに、丸裸のままで。とにかく必死で、とにかく愉しかった。

今また日の下に転がる彼らひとりひとりを見つめ始める。あの日の私が熱を注ぎ込んだ彼らを見つめる。あの日の私を見つめる。
現在の私の文章に、少しだけあの頃の色が混じり始めるのを見た気がした。


私の歩んできた道に山吹色は咲きこぼれる。

“闇や陰というより、いてらさんは言葉に人生の重さをちょうど良く乗せられる方のように見えます。それは、とても稀有なセンスのはず”

“ネタバレ避けたいから、何も言えないです。いてらさんの代表作の1つだと思います。素材の良さもあるけれど、語りの巧さの勝利”

“いてらワールド、いてらさんのエッセイのスタイルが確立された結果のように思えるのです。写真だとピントと合う部分とボケの部分があって、ボケ味が美しいことありますよね。いてらさんは、レンズではなく、言葉でそれをなさってる気がします”

“いてらさんは言葉にすることを愛されてるのだなぁ”

“「話すの苦手」(書き言葉の方が向いてる)と自己認識されている方が、旅を求める魂を持って生まれると、こんな奇跡が起きるのかもしれないです”



これから先、この山吹色の財産を胸に、書き続けていきたいと思いました。カラストラガラさん、本当にありがとうございました。


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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!