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仏教未来フェス第二回を終えました

本日は平日の金曜日ではありましたが、仏教に関する話題を共有する「仏教未来フェス」の第二回を開催させていただき、13時からの昼の部と、20時からの夜の部とともに良い場が生まれて非常に満足しております。


前回に引き続き、一般の方も僧職の方も、フラットな立場で5分間を自分の言葉や表現で使い切るというシンプルな仕組みです。本日も総勢25名ほどの方がお話をいただけました。その中で、お昼に問いが一つ生まれました。


「わたしたちはなぜ仏教を良いと感じるのか」
「わたしたちはなぜこの場に集うのか」


ひとりの発表者さんが問いかけてくれました。なんとなくみんなそれぞれに感じている嬉しさや温かさや高揚感などがあって、思い思いに言葉にはしているものの、さて果たしてそれはなんだろうということをまとめてはいないのかもしれないと思い、みなさんに問いかけて話してもらいました。

すると、今日の参加者さんからは大きく5つの答えがまとまりました。



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■真正面から苦しさに向き合える
■興味を突き詰める先に仲間に出会える
■一人では生まれ得ない安心感がある
■肩書ではない「自分」として在れる
■役に立たない自分だとしても存在していい


一つずつ見ていくと・・・


■真正面から苦しさに向き合える
なるほど、自分のしんどさややるせなさに向き合うことは苦しい。けれどそれをすることが人生にはつきものだってことを知っているし、それに向き合うことが人生だよねってわかってくれる仲間がいてくれる。そこに向き合うことはおかしいことじゃない、それは真剣に生きていることなんだよねって言える場所であるってこと。それは本当にそうだなと思いますね。

■興味を突き詰める先に仲間に出会える
まさに着実にマニアックな場になりつつあります。しかし、マニアックでないとすれば、なんの話をするのか。当たり障りのない、みんなが納得出来る普通の話だけをし続けて人生を終えるのか。そうじゃないよね、自分が話をしたい話題があるよね、その表現をしたいからこそ言葉があるくらいだね、ということかなと。うん、興味を突き詰めても受け入れてもらえる場所か。

■一人では生まれ得ない安心感がある
だからこそ、みんなで一緒に居られること、また違う人が違う考え方を真剣に持ち込んでくれることが楽しいし、学び深いし、心細くないってことになるんだなと思います。みんなでここに真剣に、しかしゆるやかに居られる。

■肩書ではない「自分」として在れる
ともすれば、役職を得たあなただからそこにいてほしいだけで、役職のないあなたには用はないなんていう場所はいくらでもあります。そこに比べればこの場所には、役職など求めるはずもなく、ただただその人生をどのように生きて、楽しみ、苦しみ、葛藤に悶えながら自分の頭で考えて生きているのかを知りたい、そんな人たちが集っている。それはまさに自分そのものを、この場所で受け入れられると感じられるのだろうなと。

■役に立たない自分だとしても存在していい
そして、ついつい自分が社会的に、誰かの役に立たない限り生きてちゃいけないような気持ちにすらなることって誰しもありますね。でも、ただ生きていれば、ここにきて耳をすましてくれていれば、むしろ全く聞いてなくてもいい。生きてさえいてくれれば、もしくは生きていたと教えてくれてさえいれば、それでもいいかもしれないというくらいの場だと言えます。


それを、エア寺であり、仏教未来フェスで表現し続けることができたなら、まさにそれこそ表現したいと思ってきたことなのかもしれないと思えます。

まさかこんなことを改めて思い直す、カタチにできる場になるとは思ってもみませんでしたが、素晴らしい場になって嬉しく思います。


そして、こうして感じてくれる、期待してくれる、そういう「オンラインに思いが集う場」としてエア寺も存在し続け、心細い誰かのところに届いてくれたらいいなと思うばかりです。これからも幅広くゆるやかに、そしてマニアックにも深く、多くの方と語らう機会が広がることを続けていきます。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。