型を学ぶって大事だと思った42歳

先日42歳になりまして、まあまあ立派なおっさんです。

さて、石州流のお茶道をベルギー人の師匠に教えてもらい始めてから3年がそろそろ経過しそうです。今日は袱紗包み(ふくさづつみ)という点前の型を新しく教えてもらったのですが、濃茶では通常のところ「茶入」っていうちっさい壺みたいな入れ物を使うところで、あえて雪吹という「棗」を使って、吹雪の勢いのような動きを模して、包んである袱紗の包みを取り去るという・・・言葉にするとマジでなんとも説明できないお洒落なやり方。

とりあえず「なんか普段と違う新しいやり方」を学んだわけですが、これは全体の工程のうち、お客さんを招く前の準備の部分と、招いてからお茶を点てるまでにいくつかの準備が普段と異なるだけで、あとはほとんど一緒だとわかったので、あまり迷わずにひとつの新しい型を学ぶことができました。


そうして新しい型を学びつつ、他の方が薄茶を点ててくださっている間に「ふむ・・・、基本を何度も繰り返しておくと、なんて便利なのだ」としみじみと嬉しくなってしまったのでした。

基本的な型を学ぶと、その型にある動きの根本的な理由に気付くことができるようになり、また記憶から順番が消えてしまったとしても、その場にある道具の配置を落ち着いて眺めれば、次に何をしなくちゃいけないのかは自ずと見えてくるようになることを感じています。

覚えなきゃいけないのではなく、見たら次に何をしなくちゃいけないかが分かるようになるまで、息をするようにしなくちゃいけないことが見えるようになることによって、余計に「次どうしたらいいんだっけ?」なんてことに頭を使う必要がなくなります。

次どうしたらいいのかを考えなくても身体が動いていることで、その場面で周りがどのような気持ちでいるのかを観察出来たり、感じられたり、そこで自分がどんな振る舞いをすればいいか、声掛けをすればいいかを考える余裕も生まれてくるので、その場は自ずと和みやすくなってくるものです。

相手の言動を余裕をもって観察することで、相手の不安や、相手の焦りなども感じられ、相手に届く言葉選びや、その声をかけるタイミングと音量なども自ずと工夫が凝らせるようになってくるものだなと。そうすれば、きっとその場をいかに良くしようかという気持ちも、言葉と行動に表れ、伝わり、お互いへの気遣い・眼差しが届くようになるのだろうなと。


余裕を持つことによって、相手の話に耳を傾けたり、相手の挙動に目を配り、その意味を想像することができるように思います。

だからこそ、型をしっかりと学び、何を大事にし、すべてのことを厳格に成し遂げることよりも、ときにはゆるく、臨機応変にできる範囲が見定められ、それでもやはり押さえておくべきことは押さえる、といった緩急のつけかたも上達していくように感じます。

うまいお茶をいただきながら、色々考える機会をいただいてます。有難い。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。