年齢という括りについて

いつだったかなーと思って検索してみたら2年前だった。

どっかの外国で、「自分の年齢が不服なので、年齢を若返らせてくれ」という訴訟があったのを印象的に覚えていた。


なんて面白いことを考えるんだと思いました。


生まれてから確かに69年を経ているので69歳だとも言えるが、私は49歳だと言いたい。だから、変えてくれ。


そんなん思いつきもしなかったです。ほんま世界には面白い人がいるもんやで。69歳を49歳ということにしてくれって・・・。

しかし69歳が49歳に年齢引き下げることのデメリットはなんだろうか。

まあそもそも、本当は69年経過しているのに、病院に行って「あれえ、49歳にしてはなんかガタがきてるけど、ってあんた69歳か!!」っていうのは明らかにややこしくなります。本人も病院側も少し困りそうではあります。


あとは会社かな。65歳定年の会社に勤めたとして、自己申告55歳のときに、定年まであと10年ですねー。なんて言ってたら、実は75歳でしたなんていうことがあるかもしれない。あと10年で定年どころか、すでに定年後10年か。

うむ、それだと健康保険の適用も困りそうな感じではありますね。

やっぱり一定の加齢によって病気がちになり、そこで健康保険料の負担額も増えていくけど、会社として本当は75歳の後期高齢者にあたる人を、55歳として雇うと「なんであの人はあんなに整骨院によく行くんやろう、おかしいなあ。って75歳かよ!」みたいなことはありそうな気もしますね。


いや、こんなことが書きたかったわけじゃないのに・・・。


年齢が近い人たちが頑張っていると奮起しちゃうのは、なんか学校制度で形成された価値観なんだろうなあと思います。

同い年、同年代、同世代、ってなんとなく同じテレビ番組を見たり、同じアニメを見たり、同じゲームをしたりしてた人たちが、いつの間にやらちょっとずつ違う人生を歩んでいき、社会の各方面で活躍しているのをみると嬉しくなったり、ちょっと焦ったり、ちょっと羨ましくなったり、ちょっと凹んだりするかもしれません。


実力テストで一定の点数を取ったら評価されるかのように、同級生のうちで一定の評価をすることが当たり前であった括りの中で、僕は知らず知らずのうちに同世代のうちにおいては、出来るだけ立派でいなけりゃいけないって思う気持ちが芽生えていたように思います。それが当たり前かのように。

社会人になれば、同期入社のつながりは一定あれど、基本的には年齢の違う人たち同士で仕事に関わり、競い合い、助け合い、仕事をしていくことが多かったし、今もそうです。そして同い年だと「えー、同い年なんやー!」みたいなことで盛り上がっちゃうクセがどうしても抜けません。

なんなのだろう、この同い年の仲間意識・連帯感であったり、競争意識・ライバル視であったりする、不思議なものは。当たり前になっちゃっているけど、そんなこと本当は重要なことなんだろうか。ただのラベルでしかないと思うのだけど、だって、年齢はイチ要素でしかないわけだから。


何より厄介なのは、今でも自分の心身の調子が乱れていると自覚しているときに起こる妙な感情。「同い年の中では立派でいなくちゃ」とか「下の年齢の子に尊敬される人にならなくちゃ」とか「年上の人には今のうちに追いつかないと」みたいな、妙な年齢の括りに縛られた、僕の防衛的感情だ。

これも体調が良かったり、特に副交感神経が優位と感じられるときには一切考えもしないことが、交感神経優位のとき=緊張感が高いとき、には明らかに生存本能が手当たり次第に防衛的感情を立ち上げようとしてくる。

それが必要のないライバル視だったり、マウンティングだったり、場合によっては論破しようとしてみたり、自分を大きく見せようとしてみたり、必死で結果を出そうとして焦ったり、なんてことにつながっているのだろう。


そうか、年齢という括りにも、ある意味で集団における優位性を確保したいという気持ちが生まれる、それはまさに生存本能における防衛的感情が立ち上がっているときに、そんな気持ちが生まれるんだろうな。ウムウム。


しょーもないな!!
ひたすらしょーもない!!


ゴキゲンにいられるようにして、しょーもない防衛的感情を働かせることがないように穏やかに生きていきたいなと思う。恐らくごくごく当たり前に、年齢に潜む防衛的感情のトリガーが見つけられて、とても良かった。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。