寂しさを口に出していこうぜ

今日は1年ぶりに佐用町の小商い塾メンバーで集まって話をして、特にメンバーの中で寂しさに向き合わざるをえない人がいたことはとても大事なことだと思えて、こうした寂しさに向き合うことを照れてちゃ、人が孤独死していくことに立ち向かうことなんか出来はしないよなと思えたのだった。


小商い塾という取り組みは、最初は「お金をもらうことや、価値をちゃんと可視化していくってことはとても大事なことだよ!」っていう思いがあって始めたけど、徐々にやりながら、少しずつ感じてきたことがあって、それは時間をお金を稼ぐために使える方法を考えるために商いをしたいと考えるのか、もしくは商いとはそもそも自分の価値を何か欲しいものと交換するために世の中に示していくことなのだ、と伝えることなのかということ。


ぼくはバランスが悪そうに見えるんだけど、実は僕の中では相当バランスをとって生きているし、とても論理性と直観の間で生きている人間だと自覚をしていて、存在そのものはどうあるべきなのかと考える直観型の人と、現実の世界でどう形にして実現していくのかを考える論理的な人の間で、理想的な考え方がありつつも、いま世の中で起こっていることから推測される現実世界の進捗において実現可能なことはなんなのか、を考えるということが好きだなと思うし、それは人に期待されて仕事にもなっている気がする。


世の中に起こってきたことは、物質的な豊かさが欠乏している状況をとりあえず埋めていこうじゃないかという流れであり、それは本当に着実に世界中で、そして先進国である日本ではとりわけ早いうちに実現していったものであるように思う。たしかに物質的に豊かで、だいたいなんでも手に入る。

そもそもそのことは本当に恵まれていることであって、その土台の上で僕らは次の充足を目指そうしているのだということを感じているし、次の充足はどうしたって物質的充足ではなく、やはり精神的充足ではないかと思う。


そんなの贅沢な悩みだ、と言えるものだろうか。


物質的な充足を目指し、関係性の充足や精神的な充足を疎かにしても、自分の生きる意味を自分と誰かの物質的な充足のために身を粉にして働くということによって、社会的なステータスにおいて一定の価値を見出せるとすれば、そりゃ人はきっとそうして単純に物質的充足に邁進することになってもおかしくはないだろう。

それでもそんな物質的な価値は当然満たすべき価値なのであって、なんら社会的なステータスには影響がないとも思えるいまのような時代においては、精神的な充足はどのようにしたら満たせるのかってことに向き合わざるを得なくなっていることは事実だと僕は思うし、それは大変なことだと思う。


精神的な充足において、とても見過ごせるものではないことは、「孤独」であるということ。精神的に孤独で、自分が誰にも理解してもらえない存在だという気持ちで生き続けることはとても苦しいことだと思う。


それをもしも救える方法があるとすれば、それは「寂しい」「助けて」という気持ちを素直に吐露してもらうことだと思っている。


この古民家をなんとかしたいと思ったブログもまた、大晦日にあまりにも寂しい状況をなんとかしたいと思って声をあげ、とにかく毎日困った困ったと口に出すことから始めて、今はどうにかみんなが住んでくれている。

落ち込んだ気持ちになった時に、誰かに助けてを求めるのはとても難しいことであることはわかっちゃいるけれど、それでも言わざるを得ない。


「寂しいよーって言いな」
「助けてーって言えよ!」


それを示して誰も彼もが助けてくれるわけじゃないし、余裕がない時には僕だって助けられないことはある。けれど、それでも誰かが助けてくれると信じて何度も何度も諦めずに声を出していかなきゃいけないと思う。


寂しいって気持ちは、いま多くの人が当たり前に持つ、満たされていない感情のひとつだ。だからその気持ちを口に出しても変な人だと思われたりしないし、それで変だと思う人と一緒にいる必要なんかないのだ。


ちゃんと寂しさを口に出しても生きていける。
そういう世界で生きていこう。だからつくろう。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。