縁あるものだけに囲まれている

ああ、また火曜日。生死(いのち)の会が終わりまして、今日も10名の方が来てくれて、みんなでいろいろと興味深いお話をしました。


徐々に「仏教」に関わることが増えてきていて、オンラインでもリアルでも確実に仏教に関わる機会に恵まれていて、それは手繰り寄せるようなものではなく、ただ自然と自分の手元にやってきてくれたから関わることができているものなのだと思います。こちらから関わろう関わろう、やろうやろう、と思っても不思議に見につかない時は身につかないものだと思います。


2019年3月にたまたまインドにいくことになったときにも「インドに呼ばれましたね」と言われたとき、「えー、自分で行くこと決めたんやけどな」と思ったけど、実際インドにいってみて、予定も決めずにいったのに導かれるままに旅が素晴らしいものとなったときに、ああ本当に呼ばれているってことがあるんだなと信じることが出来るようになりました。


同様に仏教に関わるご縁は、たまたま婆ちゃんが亡くなったときに「白骨」という蓮如上人が書いてくれた御文章に出会い、それを読んで先人たちがいかに他者に慈愛をもって関わろうとしていたのかという事を知り、感動してからお経の意味を自然と調べ始めて、エア寺を展開するに至るわけでして、決して自分がどうこうしたというものではなく、たまたま(偶々と書く)のご縁に導かれて、仏教と関わることが出来ているわけです。

同じように、いま自分が関わるご縁がある人たちとは、本当にたまたまご縁をいただいているからこそ出会えていて、それは必要な気づきを与えてくれたり、こちらが与えることになったり、癒したり、癒されたり、勇気づけたり、勇気づけられたり、そんなふうにご縁をいただいて関わっている貴重な存在であるなと思うと急にありがたい存在だと思えるものです。


願わくば、自分の周囲にいる人たちが素晴らしい人たちであると思えるご縁(自分がそう思える考え方に育つこと、そう思える人たちに出会えること、そう思える余裕がある暮らしであることなど)に恵まれれば幸せなことだなと思いますし、そう思えるご縁に預かったとすれば、やはり出来るだけそういう機会に一緒に時間を過ごせる人たちのためにできることを、小さくともなにか出来ると嬉しいものです。

三教指帰を書いた空海センパイの存在に近づくようなご縁は、いまのところはなさそうですが、まあなんせ仏教に世界の端っこのほうで関わるご縁があるって嬉しいことだなと心から思ってます。ナム~。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。